川中子義勝「居留のひと」、岡野絵里子「The dead」(「彼方へ」4、2019年08月31日発行)
川中子義勝「居留のひと」は四部構成になっている。その最初の部分に、次の四行がある。
「もとの形に戻るだろうか」は疑問の形をとっているが、疑問ではない。「もとには戻らない」という確信を伝えるために、わざと疑問の形にことばは動くのだ。すでにだれもが知っている「レトリック」なのかもしれないが、レトリックを感じさせない。それは、「掘りだした小石を/もとの窪みに置いてみてほしい」という二行に不思議な静かさがあるからだ。
「不思議な静かさ」と私は簡単に書いたが、それはなんだろうか。
地面に埋まっている小石。それを掘り出す。そういうことをしたことがある。何のために? 小石の全体が見たかったのかもしれないし、ただ掘り出したいだけだったのかもしれない。意味にならないものが肉体のなかにあって、それをどうしていいかわからずに小石にぶつけていたのかもしれない。掘り出した後、見たのはなんだったろうか。窪みの形か。湿った泥の色か。あるいは隠れていた小石の形か。よく思い出せないが、思い出せないまま、なんとなく思い出す。肉体が覚えていることが、正確なことばをもたないまま、肉体の動きとして思い出される。そういうあれこれを、レトリックの定型がととのえてくれる。
こういう「時間」が、私は好きだ。
そのあと、川中子のことばは、こうつづく。
私は、ここでつまずく。ことばが一気に「意味」になってしまう。「意味」が、いま起きていることを先回りしてととのえてしまう。
「嗟嘆」ということばを多くの人がつかうのかどうか、私は知らない。私はつかわない。「嗟嘆」を「かなしみ」と読ませ、「期待」を「あこがれ」と読ませることがふつうにおこなわれているかどうかも、私は知らない。川中子がそう読ませたいと思っていることだけがつたわってくる。これが、つまずきの原因だ。川中子が何を思っているかではなく、思いをつたえようとしているという気持ちがつたわってくる、ということが。その気持ちは、言いなおすと「誤読を許さない」という気持ちだ。「嗟嘆」は「かなしみ」と読まなければいけない。「期待」は「あこがれ」と読まないと、正確に読んだことにならない。川中子は、読者の(私の)読み方に対して、あらかじめ「正解」を用意し、それに従えと言っていることになる。
こういうことばの前では、私の肉体は、学校の机に向かって先生の話を聞かされている形になってしまう。掘り出した小石の穴、窪みを見つめているような感じにはならない。「自分で掘った石の穴なんか、見てるんじゃない(よそ見するんじゃない)」と叱られている感じになる。
だから「世界の戸口に立つ不安に似ている」という美しいことばさえ、「ほら、美しいと言いなさい」と言われている気持ちになる。
「不安」には「ルビ」がない。でも「ふあん」と読んでいいのかな? もしかすると、これこそ「あこがれ」かもしれないのになあ。
どう書いても、読者は誤読するのだ、というところから書き始めると、川中子のことばは「つかまえたい」という欲望を誘うのではないか。「意味」を押しつけられると、私は「追いかけるのはやめよう」と思ってしまう。「意味」というのは、いつでも、どこでも人間をつかまえてしまう。わざわざ他人の「意味」につかまりたくはない。
岡野絵里子「The dead」も連作というか、二部仕立てになっている。その「ⅱ」の書き出し。
「それら」は何かなあ。二連目の「叶わぬ望み」かもしれない。では、なぜ最初から「叶わぬ望み」と書かないか。すぐにはことばにならなかったからだ。「それ」としか、わからない。「それら」と書き始め、「漂う」「押し合う」「濃くする」「厚くする」という動詞を動かしていると、その動きにあわせて肉体も動き、肉体の内部がととのえられる。そして「叶わぬ望み」ということばを結晶させる。それは「望み」という名詞に結晶しているが、「叶わぬ」という動詞の方が、より重要だろう。岡野にとって。そう読みたい。誤読したい。
「叶わぬ」ものが「動く」(動かす)。「現れる」「佇む」は、「望み」は「現れたが、動かず佇んでいる、つまり叶えられなかった」に収斂していく。一連目は「肩(の辺り)」だったが、いまは「人」になって「佇んでいる」。その人は、
岡野は、きのうときょうの違いを認識している。人の服が変わっている。その変化を知らず知らずの内に確かめるくらい、その「人」は岡野にとってなじみのあるものになっている。
ことばをたどることで、こういう変化を知ることは、不思議に楽しい。岡野になった気持ちになる。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076118
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
川中子義勝「居留のひと」は四部構成になっている。その最初の部分に、次の四行がある。
掘りだした小石を
もとの窪みに置いてみてほしい
変えられた世界の仕組みは
もとの形に戻るだろうか
「もとの形に戻るだろうか」は疑問の形をとっているが、疑問ではない。「もとには戻らない」という確信を伝えるために、わざと疑問の形にことばは動くのだ。すでにだれもが知っている「レトリック」なのかもしれないが、レトリックを感じさせない。それは、「掘りだした小石を/もとの窪みに置いてみてほしい」という二行に不思議な静かさがあるからだ。
「不思議な静かさ」と私は簡単に書いたが、それはなんだろうか。
地面に埋まっている小石。それを掘り出す。そういうことをしたことがある。何のために? 小石の全体が見たかったのかもしれないし、ただ掘り出したいだけだったのかもしれない。意味にならないものが肉体のなかにあって、それをどうしていいかわからずに小石にぶつけていたのかもしれない。掘り出した後、見たのはなんだったろうか。窪みの形か。湿った泥の色か。あるいは隠れていた小石の形か。よく思い出せないが、思い出せないまま、なんとなく思い出す。肉体が覚えていることが、正確なことばをもたないまま、肉体の動きとして思い出される。そういうあれこれを、レトリックの定型がととのえてくれる。
こういう「時間」が、私は好きだ。
そのあと、川中子のことばは、こうつづく。
私は草の嗟嘆(かなしみ)を知っている
石もまた期待(あこがれ)を抱く
それは親しい土地を離れ
世界の戸口に立つ不安に似ている
私は、ここでつまずく。ことばが一気に「意味」になってしまう。「意味」が、いま起きていることを先回りしてととのえてしまう。
「嗟嘆」ということばを多くの人がつかうのかどうか、私は知らない。私はつかわない。「嗟嘆」を「かなしみ」と読ませ、「期待」を「あこがれ」と読ませることがふつうにおこなわれているかどうかも、私は知らない。川中子がそう読ませたいと思っていることだけがつたわってくる。これが、つまずきの原因だ。川中子が何を思っているかではなく、思いをつたえようとしているという気持ちがつたわってくる、ということが。その気持ちは、言いなおすと「誤読を許さない」という気持ちだ。「嗟嘆」は「かなしみ」と読まなければいけない。「期待」は「あこがれ」と読まないと、正確に読んだことにならない。川中子は、読者の(私の)読み方に対して、あらかじめ「正解」を用意し、それに従えと言っていることになる。
こういうことばの前では、私の肉体は、学校の机に向かって先生の話を聞かされている形になってしまう。掘り出した小石の穴、窪みを見つめているような感じにはならない。「自分で掘った石の穴なんか、見てるんじゃない(よそ見するんじゃない)」と叱られている感じになる。
だから「世界の戸口に立つ不安に似ている」という美しいことばさえ、「ほら、美しいと言いなさい」と言われている気持ちになる。
「不安」には「ルビ」がない。でも「ふあん」と読んでいいのかな? もしかすると、これこそ「あこがれ」かもしれないのになあ。
どう書いても、読者は誤読するのだ、というところから書き始めると、川中子のことばは「つかまえたい」という欲望を誘うのではないか。「意味」を押しつけられると、私は「追いかけるのはやめよう」と思ってしまう。「意味」というのは、いつでも、どこでも人間をつかまえてしまう。わざわざ他人の「意味」につかまりたくはない。
岡野絵里子「The dead」も連作というか、二部仕立てになっている。その「ⅱ」の書き出し。
それらは
人の肩の辺りに漂い
曲がり角では少し押し合って
通りの空気を濃く厚くする
叶わぬ望みが人を動かす
決まった時刻に現れて
公園の入り口に佇む人
今日は薄緑の服を着ている
「それら」は何かなあ。二連目の「叶わぬ望み」かもしれない。では、なぜ最初から「叶わぬ望み」と書かないか。すぐにはことばにならなかったからだ。「それ」としか、わからない。「それら」と書き始め、「漂う」「押し合う」「濃くする」「厚くする」という動詞を動かしていると、その動きにあわせて肉体も動き、肉体の内部がととのえられる。そして「叶わぬ望み」ということばを結晶させる。それは「望み」という名詞に結晶しているが、「叶わぬ」という動詞の方が、より重要だろう。岡野にとって。そう読みたい。誤読したい。
「叶わぬ」ものが「動く」(動かす)。「現れる」「佇む」は、「望み」は「現れたが、動かず佇んでいる、つまり叶えられなかった」に収斂していく。一連目は「肩(の辺り)」だったが、いまは「人」になって「佇んでいる」。その人は、
今日は薄緑の服を着ている
岡野は、きのうときょうの違いを認識している。人の服が変わっている。その変化を知らず知らずの内に確かめるくらい、その「人」は岡野にとってなじみのあるものになっている。
ことばをたどることで、こういう変化を知ることは、不思議に楽しい。岡野になった気持ちになる。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076118
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com