詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

川中子義勝「居留のひと」、岡野絵里子「The  dead」

2019-09-02 10:09:39 | 詩(雑誌・同人誌)
川中子義勝「居留のひと」、岡野絵里子「The  dead」(「彼方へ」4、2019年08月31日発行)

 川中子義勝「居留のひと」は四部構成になっている。その最初の部分に、次の四行がある。

掘りだした小石を
もとの窪みに置いてみてほしい
変えられた世界の仕組みは
もとの形に戻るだろうか

 「もとの形に戻るだろうか」は疑問の形をとっているが、疑問ではない。「もとには戻らない」という確信を伝えるために、わざと疑問の形にことばは動くのだ。すでにだれもが知っている「レトリック」なのかもしれないが、レトリックを感じさせない。それは、「掘りだした小石を/もとの窪みに置いてみてほしい」という二行に不思議な静かさがあるからだ。
 「不思議な静かさ」と私は簡単に書いたが、それはなんだろうか。
 地面に埋まっている小石。それを掘り出す。そういうことをしたことがある。何のために? 小石の全体が見たかったのかもしれないし、ただ掘り出したいだけだったのかもしれない。意味にならないものが肉体のなかにあって、それをどうしていいかわからずに小石にぶつけていたのかもしれない。掘り出した後、見たのはなんだったろうか。窪みの形か。湿った泥の色か。あるいは隠れていた小石の形か。よく思い出せないが、思い出せないまま、なんとなく思い出す。肉体が覚えていることが、正確なことばをもたないまま、肉体の動きとして思い出される。そういうあれこれを、レトリックの定型がととのえてくれる。
 こういう「時間」が、私は好きだ。
 そのあと、川中子のことばは、こうつづく。

私は草の嗟嘆(かなしみ)を知っている
石もまた期待(あこがれ)を抱く
それは親しい土地を離れ
世界の戸口に立つ不安に似ている

 私は、ここでつまずく。ことばが一気に「意味」になってしまう。「意味」が、いま起きていることを先回りしてととのえてしまう。
 「嗟嘆」ということばを多くの人がつかうのかどうか、私は知らない。私はつかわない。「嗟嘆」を「かなしみ」と読ませ、「期待」を「あこがれ」と読ませることがふつうにおこなわれているかどうかも、私は知らない。川中子がそう読ませたいと思っていることだけがつたわってくる。これが、つまずきの原因だ。川中子が何を思っているかではなく、思いをつたえようとしているという気持ちがつたわってくる、ということが。その気持ちは、言いなおすと「誤読を許さない」という気持ちだ。「嗟嘆」は「かなしみ」と読まなければいけない。「期待」は「あこがれ」と読まないと、正確に読んだことにならない。川中子は、読者の(私の)読み方に対して、あらかじめ「正解」を用意し、それに従えと言っていることになる。
 こういうことばの前では、私の肉体は、学校の机に向かって先生の話を聞かされている形になってしまう。掘り出した小石の穴、窪みを見つめているような感じにはならない。「自分で掘った石の穴なんか、見てるんじゃない(よそ見するんじゃない)」と叱られている感じになる。
 だから「世界の戸口に立つ不安に似ている」という美しいことばさえ、「ほら、美しいと言いなさい」と言われている気持ちになる。
 「不安」には「ルビ」がない。でも「ふあん」と読んでいいのかな? もしかすると、これこそ「あこがれ」かもしれないのになあ。
 どう書いても、読者は誤読するのだ、というところから書き始めると、川中子のことばは「つかまえたい」という欲望を誘うのではないか。「意味」を押しつけられると、私は「追いかけるのはやめよう」と思ってしまう。「意味」というのは、いつでも、どこでも人間をつかまえてしまう。わざわざ他人の「意味」につかまりたくはない。

 岡野絵里子「The  dead」も連作というか、二部仕立てになっている。その「ⅱ」の書き出し。

それらは
人の肩の辺りに漂い
曲がり角では少し押し合って
通りの空気を濃く厚くする

叶わぬ望みが人を動かす
決まった時刻に現れて
公園の入り口に佇む人
今日は薄緑の服を着ている

 「それら」は何かなあ。二連目の「叶わぬ望み」かもしれない。では、なぜ最初から「叶わぬ望み」と書かないか。すぐにはことばにならなかったからだ。「それ」としか、わからない。「それら」と書き始め、「漂う」「押し合う」「濃くする」「厚くする」という動詞を動かしていると、その動きにあわせて肉体も動き、肉体の内部がととのえられる。そして「叶わぬ望み」ということばを結晶させる。それは「望み」という名詞に結晶しているが、「叶わぬ」という動詞の方が、より重要だろう。岡野にとって。そう読みたい。誤読したい。
 「叶わぬ」ものが「動く」(動かす)。「現れる」「佇む」は、「望み」は「現れたが、動かず佇んでいる、つまり叶えられなかった」に収斂していく。一連目は「肩(の辺り)」だったが、いまは「人」になって「佇んでいる」。その人は、

今日は薄緑の服を着ている

 岡野は、きのうときょうの違いを認識している。人の服が変わっている。その変化を知らず知らずの内に確かめるくらい、その「人」は岡野にとってなじみのあるものになっている。
 ことばをたどることで、こういう変化を知ることは、不思議に楽しい。岡野になった気持ちになる。






*

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谷川俊太郎の世界(8月19日)(朝日カルチャーセンター福岡)

2019-09-02 00:00:00 | 現代詩講座
普通の人々
ヤマグチ カヨ
スイッチパブリッシング


 谷川俊太郎『普通の人々』のなかから「謎めく」を読んだ。長い作品なので、最初の四連しか読み進むことができなかった。参加者は青柳俊哉、網屋多加幸、池田清子。

空に化粧した意味が棚引いている
墨絵の虎が道を歩いて行くのを見た
と山口が言う
放し飼いの夢が卵を生んでいる
もつれた紐のたぐい
風景はモノクロ写真そのまま不動

信じてと房子が言う
フィンランドの秋の砂利道
飯田はとっくに故国で死んでいる
凧が揚がっていて
国境までざっと六時間
声が活字へと涸れていく

それから? と思う
崖から夢想がこぼれてくる
翻訳ソフトが凍る
明枝が誤解の球根をもてあそぶ
堆肥の暖かさ
芽生えるのは論理ではない

詩作は諦念の産物で
繊細な線が三本ほど引かれる
拒む快感を拒む男は誰だったか
端座で大笑いしている吉川
琺瑯の純白
信号の赤

 まず感想を、思いつくままに語り合った。
「一連目の、空に化粧した意味が棚引いている、放し飼いの夢が卵を生んでいる、で考え込んでしまった」
「意味が棚引くから雲が棚引くを思い出すが、意味が棚引くというものがおもしろい。墨絵の虎が最後(引用していない部分、ほんとうの最後の連)でもう一度出てきて完結するのだけれど、意味に拘束されていない。そういう書き方をしている」
--気に食わないところはありませんか?
「飯田はとっくに故国で死んでいる、がどうもイメージしにくい。ことばがほんとうのことを隠している。ことばとイメージに差がある。翻訳ソフトが凍る、明枝が誤解の球根をもてあそぶ、というのもことばについて何かを語ろうとしている。墨絵の虎はモノクロですね。それが心の奥に生きているのかなあ。フィンランドの秋の砂利道は、ちょっと調べてみた。冬に雪が降ると道路でスリップする。それを防ぐために、雪が降る前に砂利を撒くんですね。声が活字へと涸れていく、はすごい表現だな。本来ことばがもっているものが活字にすると涸れていく。逆のこともあるんだとは思うけれど。そういうことも思った」
--一連目から、少しずつ読み直してみましょうか。意味が棚引くというのはことばとしてはわかるけれど、意味ってなんだろうなあ。雲と棚引くはつながるけれど、意味と棚引くはつながりにくい。化粧した意味、とも書いている。これも、わかったようでわからない。ここから逆に考えましょうか。この「意味」に似たことば、近いことばは、ほかにないだろうか。
「誤解」
--意味を誤解するというような言い方をしますね。つながりますね。そういうことばをもっと探してみましょうか。
「信じて、意味を信じて、信じる」
--誤解のように名詞と通いあうもの、信じるのように動詞とつながるもの。そういうものがまだまだあると思うけれど。
「論理」「翻訳」
--翻訳を取り違えると、誤解になりますね。
名詞ではなく、信じるのように動詞はほかにありませんか? 意味を主語にしたとき述語になることば。
「意味を、生んでいる、生み出す。動詞は全部つながるかもしれない。こぼれてくる、も意味がこぼれてくる」
「凍る、もてあそぶ」
「論理をもてあそぶにつながる」
--意味が凍るって、どういうときにつかいますかね。
「論理的ににっちもさっちもいかなくなるとき」
--論理が固まってしまう、固まるが凍る。行き詰まる感じですね。いま、意味が凍るを行き詰まるととらえなおしたけれど、そうすると、凍るは「比喩」になっているということかな? ほかのことばも比喩になっているだと思う。意味を信じるは比喩ではないし、意味をもてあそぶも比喩とは言えないかもしれない。けれど、意味がこぼれるは比喩とよべるかなあ。厳密には区別できないけれど。
 凍るとにたことばで、意味につながることばはないですか?
「涸れている、とか、死んでいる」
--では、死んでいると反対のことばはないですか?
「卵を生んでいる」
--死んでいると生んでいるは反対のことばになるかもしれないけれど、何か響きあっているものがある。
 もうひとつ、みつけてほしいことばあるのだけれど……。
 タイトルは、謎めく。意味がなぞめく、というのはどういうことだろう。
「もつれた」
--もつれたものが、謎めいている、になると思います。なぜもつれるのか。化粧した意味ということばがあるけれど、化粧によって誤解する、もつれる、ということがあるかもしれない。素顔だったら誤解されないか、といえば、ちょっとむずかしいけれど。
 そこから全体をもう一度見渡すと。
 「化粧した意味」がある。「意味が棚引く」がある。抽象的で、わかったようなわからないようなことば。その一行、この詩は何度も言いなおしているのではないだろうか。化粧した意味は、もつれた意味、という具合に。それは論理のもつれなのか、翻訳のもつれなのか。直接重なり合うわけではないけれど、どこかで似たものとして通い合う。
 谷川は日本語で書いている。でも、それを日本語ではなく、「谷川語」と思って読む。それを自分のことばに翻訳する。翻訳するために、ことばがどうつかわれているか、似たことばを探しながら、ことばの動かし方を読む、というのが詩を読むことだと思う。
 翻訳だから読み違えたり、誤読したり。それが、私は楽しいと思う。みんなが間違えることで世界が広がっていくのが楽しいと思う。
「一行目の、意味が棚引いていく、意味が雲のように流れていく。水も時間も人間も、流れるというか、過ぎ去っていく。そういうものすべてが謎めいている。それを最初の一行で言っているのかな」
--たぶん、そうだと思います。最初に思いついたことばがあって、それを何度も何度も言いなおすことで自分のいいたかったものを谷川自身がさがす。それを主語を山口にしたり、房子とかにかえながら。
 いま、意味が流れていく、すぎさっていくという感じのことを言われたのだけれど、それに似たことばはどこかにないですか?
「夢が卵を生んでいる」
「凧があがっていく」
「芽生える」
「歩いていく」
--棚引いていく、歩いて行く。動いていくものが二つある。でも主語は「化粧した意味」「墨絵の虎」。主語と結びつけて考えると、現実には「意味」は棚引かないし、「墨絵の虎」は歩かない。現実にはありえないことが、くりかえされ、あるものとして書かれている。どちらも「非現実」なので、それをなんとか他人と共有できるものにしたいと思い、谷川はことばを動かしているのだと思う。
「棚引いている」「歩いていく」は動いていく、動いているであり、それは次の「放し飼いの夢が卵を生んでいる」の生んでいるにつながっている。みんな動いている。動いているという動詞でまとめれば、「化粧した意味」「墨絵の虎」「放し飼いの夢」は動いている。そして、その三つは入れ代わり、入り混じる。区別して書いているのだけれど、読むときは、自分がわかりやいすように「視線」をむけることばを選べばいいのだと思う。
「放し飼いの夢」は、「放し飼いの虎」かもしれないし、「放し飼いの意味」かもしれない。比喩が入れ代わりますね。そういう「重なり合い」のなかに、「論理」のようなものが見えてきませんか?
 ことばはそれぞれ違うのだけれど、どこかで通い合うものがある。「論理」「意味」のようなものがある。それは、ひとそれぞれによって受け止め方が違うと思うけれど、違いながらも何か共通するものがある。
 少し視点を変えると、つぎの行に「もつれた紐」ということばがある。この「紐」は「放し飼い」とは相いれないものですね。放し飼いではない動物は紐でつながれている。ことばは、入り乱れて、あっちへ重なり、こっちへ重なるということをしている。
 それこそ、「もつれている」状態なのだと思うけれど。
 「化粧した意味」「墨絵の虎」「放し飼いの夢」は、三つのものなのか、一つなのに三つに見えるのか、それとももっとたくさんあるのに三つにしか見えないのか。それじ自分なりに考えていく、考えることで谷川と出会う、というのが楽しいかな、と私は思います。
 一連目の最後にモノクロということばが出てくるのは、谷川の視点が「墨絵の虎」に重心がおかれているからだと思う。「絵」の代わりに「写真」になっているけれど。
 なんだか、ごちゃごちゃしたことになってしまったけれど。
「谷川さん、こういうことが好きなんでしょうねえ」
--いや、私がこういう読み方、何人かの人と、ああでもない、こうでもないと読むのが好きなので、谷川さんの詩をごちゃごちゃにしているのかもしないけれど。
「めんどうくさくなるけれど」
--全部ことばにするとめんどうくさくなるから、ここが好きということろを選んで、そこだけ語ればいいんだと思うけれど、きょうは私がしゃべりすぎですね。
 で、元にもどって、一連目で、自分でも書いてみたいなあと思う行、好きだなあと思う行はどれですか?
「やっぱり一行目」
「墨絵の虎、は思いつかないなあ」
「もつれた紐のたぐい」
--私は、放し飼いの夢が卵を生んでいるが好きです。なんのことかわからないけれど、わからないから、そこに近づいていく。近づき方が、みんな違うから、おもしろくなるんだと思います。
「ほかの行のことを考えなければ、放し飼いの夢が卵を生んでいるというのは、壮大な感じがしていいなあ」
--いまの見方、大事と思います。ある一行が壮大だと思ったら、この詩のなかでその壮大さとつながっているものをさがす。そうする、もっと壮大なものを楽しむことができる。一つのことばから別のことばへ動いていく。自分の思ったことと谷川のことばをつないでしまう。そうすると谷川と話している気持ちになる、いっしょに生きている気持ちになると思う。
 二連目へ進んでみましょうか。
 二連目ではどこが好きです?
「フィンランドの秋の砂利道というのが好きです。声が活字に涸れていく、というのは書ける気がするけれど、フィンランドの一行は書けない」
「私は、声が活字に涸れていく、が印象的」
「二連目のはじめに、信じてと房子が言う、ともってきているのがおもしろい」
--何を信じて、と言ってるんだと思いますか?
「自分のこと」
「一連目全体のことかなあ」
--私も、一連目全体を指していると読んだのだけれど。
私は、飯田はとっくに故国で死んでいる、が印象に残った。
これ、どういう意味だと思います? 故国って、どこ?
「フィンランドかなあ、日本じゃないと思う」
「日本?」
「生まれ育ったところだから日本だと思う」
--なぜ、こんなことを聞いたかというと。ふつう日本で、日本語でこの詩を読むと、名前が飯田だし、故国を日本と思う。
「でも、誤解かもしれない。アメリカかもしれないし、中国かもしれない」
--そうなんですよね。勝手にそう思うだけで、故国はどこだって故国になる。
「父の恋人」を読んだとき、最初「わたし」を父の娘と思って読んだけれど、息子かもしれないし、恋人が若い女性とはかぎらない、ということを話し合いましたね。あれと同じで、日本語で故国、飯田と書かれると日本を連想するけれど、それが正しいとはかぎらない。読もうと思えば、どうとでもなりうる。
 詩は、そういう誤解を利用して書かれていると思う。特に谷川は誤解を利用して、誤解してでしかたどりつけない世界を書いているともいえる。
 「国境」というのも、どこかわからない。フィンランドの国境なのだろうけれど、向こう側がどこかは読む人に任されている。
 で、「国境」をどこのどこの国境かと特定するのではなく、わからないままにしておいておく。かわりに「国境」のなかの「境」に注目して、もし、一連目に「境目」に似たことばを探すとすると、何が見つかります? 「国境」は一連目の何の「比喩」になりうるだろうか。
「国境じゃなくて、比喩としてなら、真実と嘘との境目? そうだとすると書き出しの空に化粧した意味の場合、空が真実で意味が嘘。そこに境目がある。そこにつながる」
--そうですね。意味というのは、そういうものだと思いませんか? ものには意味があるというけれど、たぶん、それは私たち人間がつくったものであって、ものがつくったわけではない。私は、この詩を読んだとき、国境は意味を言いなおしたものだなあと直感的に感じたので、それをちょっとみなさんに聞いてみたかった。
 私たちは一連目を読むのに30分かかった。この詩では「国境までざっと六時間」と書いてある。なにかがはっきりするまで、「境」(意味)を見つけ出すまでには、人間は時間がかかる、というようなことを書いてあるのかなあ、と私は感じた。これは私の直感にすぎないけれど。
 フィンランドの秋の砂利道というのも、ただの風景かなあと思ったら、そうではなくて冬に車がスリップしないためのものという「意味」が隠れている。そんなふうにして、私たちは風景ではなく「意味」に出会っていくのかもしれない。風景の謎を解いていくのかもしれない。
 なんにでも意味はあるといえるし、ないともいえる。でも人間は知らず知らず、自分の知りたいことあわせて「意味」を探している生き物ではないだろうか。「意味」は自分が納得できるというか、知っていることを確かめるのだと思う。
 冬になれば雪が降る。知ってますね。雪が積もると車がスリップする。これも知っている。滑らないためにはどうするか。車にチェーンを巻くか、道路を滑らないようにでこぼこにするか。フィンランドはたぶん、道路を砂利道のでこぼこにすることを選んでいるのだと思う。それで、私たちは今、フィンランドはそういうことをしているという「意味」をつくって、谷川の書いた行を納得している。ほんとうは違うかもしれないけれど、私たちは、まあ、その「意味」に合意している。
 でも谷川って意地悪ですねえ。風景を風景のままにしておかない。風景の「意味」を風景につないでいかない。
 「声が活字に涸れていく」。もし、ここ「意味」があるとしたら、というか「意味」につなげると、どうなりますか? さっき「声にならない声」という感想があったけれど、その「声にならない声」を谷川の書いた一行につなげるとどうなりますか?
 「声は話す。活字は動かない。活字は歩いていくとか、棚引いていく、とは相いれない。けれど、声は動いていく」
 「声には感情がでます」
 「声は生きているそのもの、時間が動いている。活字になると時間が止まる。停止する」
 --声は動いているから、消えていく。でも活字は消えていかない。活字になって定着する。文字と言い換えると、わかりやすいけれど。谷川は、しかし、逆な感じで書いている。活字、文字になることを「涸れていく」と否定的にとらえている。活字よりも声の方がほんとうはいいという思いがあるから、活字が「涸れていく」ということばになっていると思う。活字は定着しているけれど動かないのでおもしろくない。声の方がいつも動いているで楽しい。
 もし、そういうとらえ方ができるならば、一連目はどうなるだろう。「意味」とはなんだろうか。
 いま、何かわからないままに話したことが「声」だと思う。これを整理すると「意味」になり、活字になる。わかりやすくなるかもしれなけれど、ほんとうに感じたことそのものかというと、どうしても違ってくると思う。あれこれ悩みながら声にしたことの、悩みというかうまくいえなかったものを切り捨ててしまっている。そういうことを「涸れている」という比喩で語っているように思う。
 感想をまとめる前の、ああでもない、こうでもないと言っているときの方が、その「声」の方が谷川にぐいっと近づいているかもしれない。
「でも、涸れるよさっていうのもありますね。枯山水とか」
--それは、またむずかしいですね。
「ふつうは、涸れるって、そういう字つかいますか? 花がかれるも、こっち?」
--いや、水がかれる、が涸れるかな。
 うまくいえないけれど、こういう具合に、違う声が出てくるときが、私はいちばんたのしい。せっかく四人で読んでいるのだから、四人とも違った読み方をするのがいちばんたのしいと思う。たまたま、今回は、私が多くしゃべってしまって、強引に感想を押しつけてるみたいな感じだけれど。
 どこまで読めるかわからないけれど、三連目に進んでみましょうか。
 ここにはいろいろな抽象的なことばが出てくる。これを、いままで読んできたことばと結びつけてみましょうか。
 「夢想」につながることばは一連目にはありませんか?
「夢」
--崖に近いことばありますか?
「放し飼い。広がっていくから」
--そうか、崖の向こうは広がっているか。
「危険、危ない。だから墨絵の虎」
「崖は崖っぷち。絶対的境目。モノクロの写真とか、国境。さっき話題になった、声と活字の違いも含まれるかなあ」
--崖、境目、国境。ことばは違っているけれど、どこかでつながりがある。意識して書いたのか、書いた瞬間につながるの。谷川はつないでいないけれど、私たちがつなげてしまうのか。わからないけれど、そういうものが作品のなかにはあると思う。
 で、崖、あるいは「境目」から夢想がこぼれてくる、と谷川は書くけれど、夢想と夢はどう違うんだろう。
「夢想は自分の思い。夢は、自分の意思ではない。夢想には自分の意思が含まれる」
--意志。いままで、読んできたなかで、「意」のついたことばがありましたね。
「意味」
--そうだとしたら、夢にひとつの「意味」をつけくわえたものが「夢想」になるのかな? 少女がタレントになると夢見る。その夢のために、音楽を勉強する、宝塚へ入るというような計画を立てると、その計画には意志が含まれ、それぞれの過程が意味を持ったものになる。これは、あまりいい例ではないけれど、そういうようなことがいえるかもしれない。
 崖から夢がこぼれてくる、ではなく、夢想がこぼれてくると書いているのは、こそに「意志」のようなもの、なんらかの自分で選び取ったもの、「意味」がふくまれているかもしれないですね。
 さっき「崖」を境目、意味と読めるのじゃないかと考えたけれど、そうすると、その意味から意味がこぼれる、あるいは意味にならなかったものがこぼれると読むこともできる。
 こういうことが、いろいろ入り混じるように書かれている。
 詩は、日本語ではなく、「谷川語」で書かれている。それを私たちは自分のことばに翻訳するように読んできた。でも、なかなかうまくいかなくて、凍る(フリーズする)状態になっている、というのが、いまの私たちかもしれないですね。
 そういう状態が「明枝が誤解の球根をもてあそぶ」という一行に比喩的に語られているかもしれない。この一行は、私たちのいまの状態かもしれない。
 ちょっと、これをときほぐしたい。
 もし「球根」が比喩だとしたら、これまでに書かれていることばの何の比喩になるだろう。
「卵。そこから何かが生まれてくる」
「紐?」
「もつれた紐」
--球根は根っこが玉になっている。固まっている。もつれた紐の状態かもしれないですね。「もてあそぶ」はなんだろう。私たちがこうやって谷川の詩をああでもない、こうでもないともてあそんでいるのかもしれないですね。「誤解」をほぐしているが、もてあそぶかもしれない。
 その次の行の「堆肥の暖かさ」。この暖かさを別のことばいうのはむずかしいですね。言いなおせます?
「やわらかさ、かな」
--逆の「堆肥の冷たさ」とは言うと思います?
「いわないですね」
--なぜなんでしょうねえ。
「堆肥は、植物を育てるもと。愛情です。愛情は冷たくはない」
「冷たいは、生のイメージと反対。思い浮かばない」
「それは、前に書いてある誤解がとける、凍ったものがとけるということともつながるのかな」
--誤解をとかすのかもしれないですね。堆肥は昔は人糞や動物の糞をつかっていた。肉体から出てきたものだから暖かいに通じるのかもしれない。これが、「卵を生んでいる」にもつながるのかな?
 そして、そのあとに「芽生えるのは論理ではない」とつづく。
 誤解の球根から芽生える。谷川は論理ではない、と書く。では、何が芽生えるんだろう。
「さっきおっしゃった愛情、かなあ」
--逆に言うと、芽生えるのは意味ではない、誤解ではない、翻訳ではない、ということになりますね。書かれていないものが芽生えるんでしょうねえ。
 それこそ愛情なんでしょうねえ。化粧した愛情でもない。
 で、もう少しことばを動かして、化粧した意味ではない、と言いなおすと、どうなるだろう。芽生えるのはなんだろう。
「真実」
--あ、いま、池田さんうなずいていましたけど、納得しました?
「感心しました」
--いまの真実ということば、とても説得力がありましたね。これもここには書かれていないことば。それを探すのが、自分の中から探すのが、詩を読むことなんだと思います。「真実」をさらにほかのことばで言いなおすと?
「何か、とらわれないもの。生きて、動いているもの。しかも何かにとらわれない」
--そうですね。生きているものが、動いて出てくる。そういうことが「真実」なのかもしれないですね。
 四連目を読んでみましょうか。
 どこが気に入りました?
「おもしろいのは、拒む快感を拒む男はだれだったか、という行ですね。この一行目と二行目はつづいているんですか?」
--どう思います?
「詩作と、繊細な三本の線というのが、わかりにくいなあ」
--この二行は、どういう意味だと思います?
「詩作は、というのは、これまでの三連を受けて、いままでの自分の位置を変えて見つめなおしている感じがするなあ。いままでのことばとはトーンが変わってまとめなおしている印象がある。三本の線は何かなあ」
「前に出てきている三連かなあ。放し飼いの夢が卵を生んでいるというようなことばは結びつけると、いのちの循環のようなものを感じる。永遠につながる。その一方で、諦念ということばなどを考えると、とらわれないこと、悟りにもつながる何かのようにも感じる」
--この詩はまだまだ長くつづいているのだけれど、とりあえずここまで読みすすめたいなあと私は考えてやってきました。で、なぜ、ここまでかというと、ここにある「三本」が、いま感想に出てきたことばでいうと「三連」と通じる。
 詩に、起承転結という形があるけれど、ここまでの展開は起承転結になっている感じがする。それこそ、とらえなおしているのだと思う。
 一連、二連は、内容は抽象的だけれど、ことばがまだ虎とか釜ごとか、あるいは秋の砂利道のように具体的。でも三連目は、翻訳とか誤解、論理とか、ことばそのものが抽象的。トーンがいったん変わる。それを四連目でまとめなおしている感じがする。もし、四連構成なら、これが「結」になるのかなあ、と思う。
 「三本の線」は私たちがそれぞれ読んできて、勝手に思い込んでいる何かかもしれない。そういういろいろな読み方があって、拒む快感を拒む男はだれだったのか、という行がある。私たちのいろいろな読み方も、ある人はそれを拒み、ある人は納得する。納得するというのは拒むことを拒むことになるかもしれないし、一方で、拒むひとは納得する人間は拒む快感を知らない(自分の信じたままを押し通す快感を知らない)と言っているのかもしれない。
 どう読んでも、それはそれでかまわない、ということだと私はまた自分勝手に解釈するんだけれど。
 そういう自在さが「端座で大笑いをしている吉川」につながるかなあ。
 端座って、どういう意味ですかね。
「たたずまいがきちんとしている、ということだと思う」
--端座が出てくるのは、諦念と関係があるのかもしれないですね。
 諦念ってなんですかね。
「悟り、とか」
--詩作は諦念の産物である、ということだけれど、では諦念にたどりつく前はどういうことだろう。
「いろんなことがごちゃごちゃとしている。葛藤がある。最終的に詩にたどりつく」
--そうだとは思うのだけれど、私は一方で、谷川はそういうことは肯定していないとも感じる。詩作は諦念の産物である、とは逆のことを考えているのじゃないかなあとも思う。詩は確かにことばを選んで、繊細な形にととのえられたものだけれど、そういう完成されたものの前に、詩はいきいきと動いているのじゃないだろうかという気がする。詩になる前の方がおもしろいよ、と吉川は大笑いしている、と私は読みたい。意味をナンセンスにしてしまう。絶対的な「意味ではないもの」をほうりだして、それを読者に味わわせる、そういうことが谷川の詩には多いと思う。その絶対的なもの、意味ではないものが、ここでは「琺瑯の純白/信号の赤」。そういうものが、見えればそれでいい。「意味」がついてこなくていい、という感じ。そこにあるだけの「もの」。
「諦念の産物である詩、それを拒む。拒む快感を拒む男。それをさらに大笑いする男。それをさらに突き放す、琺瑯の純白、という感じかなあ」
--ああ、それいいですね。もっと長い作品で、ほんとうはもっと読まなければならないのだけれど、大急ぎでここまで読んできて、うまい具合に「まとめ」みたいなものもあらわれたので、今回はこれで終わりにしましょう。
「長い詩で、一連一連別の詩なのかなあ、とも思った」
--別々と思って読んでもいいんじゃないかな。いまたまたま、むりやり「起承転結」にあてはめてしまったけれど。






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評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年4-5月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076118
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com


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