詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

山本育夫 書き下ろし詩集「ごはん」十八編

2019-09-06 10:32:59 | 詩(雑誌・同人誌)
山本育夫 書き下ろし詩集「ごはん」十八編(「博物誌」40、2019年09月01日発行)

 山本育夫の書き下ろし詩集「ごはん」十八編は、写真と詩が合体している。写真の上に文字を焼き込んでいる。写真は加工(?)されていて、不鮮明である。その影響で、文字も読みやすいとはいえない。
 最初の一篇(一枚)を掲載する。



 詩も、別個に転写しておく。

1 夕餉(ゆうげ)

ごはんの時間だ
その先に
人生の曲がり角
ってやつだよ
ことばの
大断崖
きっぱりと
ことばごとすべりおちる
垂直に
ごはんの商店街の夕暮れだ
冒険王が風切って
帰っていく
カバン放り投げて
ふっくら炊きたてことばを
ホフホフいいながら
食べる

 詩だけを読むと、この詩がいい詩なのか、読み散らかしてほっておけばいい詩なのか、よくわかない。
 最後の三行は、こどもが「ごはんだよ」と大声で呼ばれて帰って来て、そのままごはんに食いつくようすを描いている。「ごはん」は「ことば」ではないが、「ごはん」のまわりには「ことば」がある。特に吟味はしない。ただ食らいつく。その食らいつく感じが「ホフホフ」という、「ことば」にならない肉体の息として描かれている。ここに山本の書きたいことが集約している、と思う。
 思うが。
 私は違うことも思うのである。
 私と山本はたいして年齢が違わないはずだが、この「ホフホフ」は、私の「子供時代」と重ならない。私は山の中の小さな集落で育った。昔は、「炊きたてごはん」というものを食べなかった。かならず「ひつ」に移して、湯気を吹き飛ばしてからよそった。言いなおすと、少し冷まして食べた。子供のときは「ホフホフ」はなかった。「ホフホフ」を体験するのは、たぶん電器がまが登場してからである。食卓に(あるいはすぐ近くに)電器がまを置けるようになってからである。竈でごはんを炊いていた私の家では、「ホフホフ」が可能になったのはいつのことか、はっきり思い出せないが、少なくとも外で遊び呆けている小学生のときは、それはなかった。
 だから、思うのである。
 ここには「現実」と「現実ではないもの」が入り混じっている。「事実」と「事実ではないもの」が入り混じっている。
 でも、詩は「社会学」のテキストではないのだから、「時代」を正確に再現していなくてもいい。ここに書かれている「カバン放り投げて」「炊きたてことば」に食らいつくのが少年時代の山本でなくてもかまわない。だいたい、こどもは「炊きたてことば」というものを知らないだろう。ただそこにある食い物を食う。なんでもうまい。いちばん味覚が発達している(どんなものにも「おいしい」を発見できる)のだから、いちいち「味わう」ということなどしない。ただ食らいつく。急いで食らいつくから「ホフホフ」になるのだ。
 それが、どうした。
 どうもしない。私はただそういうことを思う。そして、そう思うことが「人生の曲がり角」を曲がってしまったからなんだろうなあ、とも思う。子供には「人生の曲がり角」などというものは、わからない。「ホフホフ」食らいついていたときが「曲がり角」なのか、「ホフホフ」食らいついていたことを思い出すのが「曲がり角」なのか。
 その「曲がり角」にしたって、

ってやつだよ

 と、ちょっとずれているというか、「曲がり角」と直面していない。この「ずれ方」というか、ずらし方というか。
 これはなんだろう。
 私は、突然、「ノイズ」(雑音)ということばを思い出すのだ。
 「人生の曲がり角」ということばが「ノイズ」なのか、「ってやつだよ」という批判がノイズなのか。区別がつかない。瞬間的に入れ代わってしまう。「ノイズ」にぶつかりながら、自分の「声」をもう一度、出してみる。「ノイズ」を突き破って、「声」を遠くへ届けることができるか。「ノイズ」にかき消されてしまうか。いや、待てよ。この「ノイズ」を利用して、「音楽」のように、まったく違う「音」を出現させることはできないか。でも、「調和」ではおもしろくないぞ。
 いろんな思いが、思いそれぞれに自己主張する。これは、めんどうくさい。ととのえようとすると、めんどうくさいし、どうととのえてしまっても「嘘」を含んでしまう。それならそれで、最初から「嘘」でもかまわないのだ。「嘘」でしか言えないことがある。「ノイズ」にしか言えないこともあれば、対抗心(反抗心)でしか言えない「純粋」もある。そして、それは互いに「ノイズ」であると同時に「純粋な音」でもある。

 あ、書いていることがだんだんめんどうくさくなってきた。「抽象」に踏み込んでしまった。

 だから、いままで書いたことはぱっと捨てて、(必要なところだけ、もう一度拾い集めて)、私は書き直す。
 山本にとって「視覚」でとらえた「風景」が「ノイズ」なのか、「視覚」に誘われて出てきてしまったことばが「ノイズ」なのか。
 奇妙に加工された写真、たとえば「夕餉」の写真は、右側の交差点の路面あたりから空にかけてが、ムンクの絵「叫び」のように渦を巻いている。修正した後拡大したために、修正の跡が残っている感じだ。この歪みを見ると、「風景」のなかに「ノイズ」がひそんでいる。山本が生きている「現場」に「ノイズ」がひそんでいる。それと戦うために(ノイズに巻き込まれないようにするために)、山本はことばを書いているのだ、と言いたくなる。
 それはしかし一瞬のことだ。
 「ノイズ」と戦うには「純粋な声」なんかではだめだ。山本自身が「ノイズ」にならないと、「風景(現実)」の「ノイズ」の「輪郭」をたどって、わかりやすいように提出するというだけのことになってしまう。「輪郭」のような、「完結」したもの(スタイル)であってはいけないのだ。
 「ノイズ」の輪郭を破る「不定形」としての運動、動きそのものの「ノイズ」にならなければならない。エネルギーにならなければならない。
 「ノイズ」を破る「ノイズ」の瞬間を、山本のことばは手さぐりでつかみとる。
 それは「ってやつだよ」や「ホフホフ」というような、「わかる」けれど、それを言いなおす(ととのえてわかりやすくする)ことができないことばのなかにある。

 もう一篇、感想を書いてみる。

7 同調圧力

あの人がいったのに
どうしてあなたはいかないの
恥ずかしいわよ
あなたもいったほうがいい
つきあいが悪いって
いわれるでしょ
のしょ
のトーンがかわいいよ
(それはねドウチョウアツリョク
っていうんだよ、ドウチョウアツリョク
ソノドガウガチガヨガウガアガツガリガヨガクガ
ポロポロのつぶてになって
そこら辺をブンブン
飛び回り
ぶつかってくる
みんなが右、といったら左
左といったら、右
頑固な親父だった
その背中が
夕暮れの中に沈んでいく

 「ソノドガウガチガヨガウガアガツガリガヨガクガ」という強烈な音。「ドウチョウアツリョク」という音の一つ一つの間に「ガ」が侵入している。それは音を切断すると同時に接続している。意味を切断する「ノイズ」であり、意味を浮かび上がらせる「ノイズ」でもある。「ガ」は「我」であるというと、大学入試のなぞときクイズになってしまうし、どこかに書かれている「哲学」になってしまうかもしれないが、そういうところに「ノイズ」をおとしめてしまってはいけない。
 これは「ガ」。もしかすると、マンガに出てくるような、「ア」の濁音のようなもの。肉体の奥から音として出てくる「ことば」にならない「声」である。
 それはたとえて言えば「みんなが右、といったら左/左といったら、右」というようなものかもしれないが、そんなふうにととのえることのできない、我慢できない「声」なのだ。人間には、直感のようなものがある。本能の欲望がある。
 「頑固」というのは、「論理」を守ることではなく、論理になる前、意味になる前の、「欲望」を貫くことである。他者に対して「ノイズ」のままでいることである。それはもしかすると自分自身にとっても「ノイズ」かもしれない。そうわかっていても、「ノイズ」を選ぶのである。 







*

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