詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

岩佐なを「樹海」ほか

2019-09-30 18:29:29 | 詩(雑誌・同人誌)
岩佐なを「樹海」ほか(「生き事」14、2019年2019年秋発行)

 詩を読む(楽しむ)のには、何かリズムのようなものがある。リズムがあわないと、ぜんぜんおもしろくない。--という言い方は、たぶん抽象的すぎるが。たとえばモーツァルトの曲がある。繰り返し、繰り返し、繰り返す。これは、私が元気なときは気持ちがいいが、疲れているときなどげんなりしてしまう。という比喩もまた抽象的だが、そういう感じ。
 「生き事」という同人誌は、昔は薄かった。ぱっと読めた。いまは分厚い。その厚さに、私はちょっとひるんでしまう。昔の三人(?)でやっていたときは読みやすかったのになあ。
 その巻頭に、岩佐なを「樹海」がある。昔は大嫌いだった。そのあと大好きになった。それから、しばらく読むのがつらくなった。最近、また楽しくなった。岩佐がかわったのか、私がかわったのか、わからない。たまたまの「リズム」かもしれない。

うたたねのなかにも
樹海はひろがっていて
深く遠くへ分け入れば
なつかしいひとたちが
樹のかげからでたりかくれたり
よくきたね、なんてうら若い記憶の兄が
かすれた語り口で包みにくる
応えてはいけない
とり返しのつかいないことになるからね
目ざめたとき
あちらだったりさ

 「うら若い」の「うら」という音がやわらかい。そのあとの「包む」という動詞につながっていく。「意味」を超えて。こういうことばの動きは好きだなあ。ぞくっとして、気持ち悪いのだけれど、この気持ち悪さが快感だと、いつのころからかわかるようになった。間にはさまれた「かすれた」という切断感(?)が、「うら」と「包む」をより強く結びつけるところなんかも。
 「とり返しのつかいないことになるからね」「あちらだったりさ」の「ね」と「さ」のずるさ。感情の押しつけ。「意味」ではなくて、あくまで感情という、ずるさ。「うまいなあ」ということばが、ふっと私の肉体の中からもれてくる。
 まあ、昼寝か何かのときに見た夢(樹海の夢、自殺者の夢)を書いているのだけれど、「読ませている」のは「意味」ではなく「語り口」だね。「意味」なんて、読者がすでにもっているから、わざわざ詩人がつけくわえることはない。「語り口」で揺さぶれば、勝手に動いていくさ、ということなのだろう。(「ほ」と「さ」を真似てつかってみました。でも、ぜんぜん似ていない。私は物真似がへたくそだ。)

うそつききつつきに指摘され
青くさい心身に
深手を負った
若気の至り
の至ったところはどこ
ぬけられません
ぬけられます
ぬけますか

 ああ、いいなあ。「樹海」と「路地」が重なる。「夢」が「現実」になって、「おはよう」という九官鳥の声で起こされる。「ぬけられません」「ぬけられます」は、路地によって(暮らしによって)共有された「声」であり「肉体」だ。ここに、何とも言えない時間の健康さがある。
 先に「ずるい」と書いた「ね」とか「さ」も、そうか「時間」だったのか、とここで読み返すのである。

 廿楽順治の「ゆうれい飴」にもすこし似たところがある。(原文は尻揃え)

戦争で
こどもらはカっと眼をひらいているのに
昨日から
どうしても学校へいかないという
(舐められたもんだな)

 (舐められたもんだな)は実際に口に出されたことばか、こころのなかで言ったことばか。口に出している方がおもしろい。「な」にもれてしまう「肉声」がある。

 安倍恭久の俳句では、

夏場所の遠藤けふは寄切つた

 が、さっぱりしていて気持ち良かった。遠藤という相撲取りは知らないのだけれど。





*

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「表現の自由」と「憲法」

2019-09-30 11:05:18 | 自民党憲法改正草案を読む

「表現の自由」と「憲法」
             自民党憲法改正草案を読む/番外290(情報の読み方)


 「表現の自由は憲法に保障されている」ということは誰もが口にする。そして「表現」も「自由」も「憲法」も「保障」も誰もが知っていることばだから、「表現の自由は憲法に保障されている」がどういう意味であるか、知っているつもりになっている。「個人が何を言うかは、表現の自由だ。他人が、個人の表現について口を挟む権利はない」と。

 たとえば、こんな具合。ある人が、あるところで発言をしていた。
 室井佑月があいちトリエンナーレについて、「表現の自由だから、補助金交付中止の決定について、中止はおかしい」と書く一方、「アイコンに国旗とか紹介文で愛国者とか書くのやめなよ。あなた達のレベルがこの国の愛国者みたいですごく不愉快」とも書いている。(らしい。私は直接読んでいるわけではなく、引用された部分を読んだだけだ。)
 これに対して、このひとは「何をどう表現するかは他人の自由な訳です。これ、彼女がどなたかに忠告出来る権利など一切ない話ですよね」「表現の自由を語るなら、他人が国旗を掲げようが、他人が愛国者を語ろうが、それも他人の自由であるはずです」

 この論理には、とんでもない誤解がある。
 憲法が「表現の自由を保障する」というのは、国民の権利を国が侵害してはならないという規定であって、個人が何を表現するかということには一歩も踏み込んでいない。何を表現してはいけないか、については何も書いていない。国民が何かを表現したとき、国(権力)はそれを守らなければならないとだけ書いてある。その表現が国にとって不都合なものであっても(権力者の気に食わないものであっても、つまり権力者を批判したものであっても)、国はそれが表現されることを保障しなければならないとだけ書いてあるのだ。
 個人の表現を、他の個人がどう判断するか。気に食わないと批判するか、気に入ったというか。これは国の管轄外のことである。個人間の問題を調停するのは、国家の仕事ではない。
 「アイコンに国旗とか紹介文で愛国者とか書く」のは個人の問題。それを「すごく不愉快」と書くのは室井の自由。批判である。これに対して、「他人が国旗を掲げようが、他人が愛国者を語ろうが、それも他人の自由であるはずです」というのもまったく問題がない。
 個人が何を書くかは(表現するか)は、「表現の自由」の問題ではない。「表現の自由」を適用し、その批判が妥当かどうか判断する問題ではない。室井も、室井に批判するひとも「権力」ではないし、できるのは「批判」だけてあり、それを強制的に削除したりはできないということを見ただけでもわかる。
 あいちトリエンナーレで起きたのは、そういう「個人対個人」の意見の衝突ではない。名古屋市長(権力者)が「少女像(慰安婦像)」が気に食わないと展示を中止させ、さらに文化庁(権力者)が予定していた予算を支払わないと決めたのだ。ここには「表現者(複数の個人)」と「権力」の対立がある。「権力」が「個人の表現の自由」を侵害したのだ。
 憲法は、こういう「権力の行動」に一定の「枠」を与え、それを禁止するためのものである。つまり「憲法」の「表現の自由は、これを保障する」は、権力(国家)の行為を禁止しているだけであって、そこに書かれている「文言」が自分の知っていることばだからといって、他人を批判したり、自分を弁護するためにつかおうとしても、無意味なのだ。「表現の自由」という規定を持ち出してきて、室井を批判するのは批判になっていない。

 個人の「表現」は、では、どうやって規制、取り締まるのか。
 個別の「法律」で取り締まる。「カネを出せ、出さないと殺すぞ」と言うのはその人の「自由」だが、それは「脅迫罪」ということで罰せられる。誰かを誹謗・中傷したり、差別すれば「名誉棄損罪」か何かで罰せられる。他人の文書をコピーしてつかえば「著作権法違反」で罰せられる。個人の行為は、「憲法」ではなく「法律」で取り締まられる。
 「カネを出せ、出さないと殺すぞ」と言っても「憲法違反」にはならない。誰かを誹謗・中傷しても「憲法違反」にはならない。個人は「憲法違反」などできないのだ。
 個人を取り締まる(規制する)のは「法律」。
 国家を規制するのが「憲法」。
 この「憲法」と「法律」の区別を無視して、個人の行為に「憲法」をあてはめようとするから、論理がむちゃくちゃになるのだ。
 「法律」からではなく、「憲法」から見ていくとわかる。「憲法」は国民に何を要求しているか。憲法を読み、そこに書かれている国民の「義務」を果たさなかったらどうなるか、それを考えてみるだけでいい。
 憲法は国民の義務として、教育、勤労、納税の三つを規定しているが、納税の義務を果たさなかったときどうなるか。「憲法違反」に問われるか。「憲法違反」ではなく、納税に関する法律が適用される。憲法は国民を取り締まらないのだ。つまり、個人は憲法違反などできないのだ。
 殺人は、人間が犯してはならないもっとも重い犯罪だと思うが、その殺人さえ、憲法違反ではない。あくまでも「殺人罪」を定めた別の「法律」が適用される。個人は憲法違反など、したくてもできない。憲法は、国籍離脱の自由さえ認めている。日本を捨てても、国民は「憲法違反」をしたことにはならないのだ。
 「憲法違反」ができるのは「権力者」だけなのである。「権力者」に、こういうことはしてはいけないと規定しているのが「憲法」なのである。その一つに「表現の自由は、これを保障する(侵してはならない)」がある。
 
 だから、個人が個人に何を言おうと「憲法違反」ではないし、個人は個人の表現に直接介入はできない。気に食わないときは、たとえば「名誉棄損」で訴えるというようなことをするのだ。

 あいちトリエンナーレにもどって言えば、「少女像(慰安婦像)」を批判したければ、だれでも自由に批判できる。名古屋市長も個人的な意見として「気に食わない」と言うことはできる。しかし、気に食わないから展示を中止させるということは「憲法違反」になる。名古屋市長は、「慰安婦像は気に食わない。だが、名古屋市長としては、この像を展示する国民の権利は保障する」と言わなければならないのだ。
 「少女像(慰安婦像」が気に食わないひとが、それを延々と語り続ける。しかし、その人は展覧会を中止させることはできない。
 名古屋市長は「慰安婦像が気に食わない」と言うことができると同時に、その展示を中止させることができる。ここが、個人とは違う。
 この「違い」をもっと丁寧にみつめないといけない。
 「表現の自由」が保障され、そのうえで、さまざまな意見が飛び交う。それが芸術にとって重要なことなのだ。ただし、今回起きたようなこと、「放火するぞ」と脅すようなことは「表現の自由」の問題ではなく、「脅迫」あるいは「威力業務妨害」に関する法律で取り締まられるだろう。

 「表現の自由は憲法に保障されている」。このことばについて疑問をもつひとはいないだろう。表現も自由も憲法も保障も、誰もが知っていることばである。だが、その知っているはずのことばが何を指し示すためにつかわれているかは、ことばを知っているだけではわからない。
 ことばには、それが何を示すためにつかわれているか、という重大な問題があるのだ。
 「表現の自由」に関する誤解は、「集団的自衛権」に対する誤解に非常に似ている。
 「集団的自衛権」を、「日本だけでは外国からの攻撃に耐えられない。アメリカや他の諸国と『集団』をつくり、日本を『自衛』する必要がある。つまり『集団的自衛権』が必要だ」と解釈する見方が非常に多くのひとに共有された。
 「集団的自衛権」は「日本が攻撃されたら」ではなく、アメリカが外国から攻撃されたら(その戦闘の場が日本からかけ離れた地域であっても)、そのアメリカへの攻撃を日本への攻撃と認識し、日本を守るため、つまり自衛という「名目」で外国でアメリカ軍と一緒に戦闘に参加するという権利のことなのだが、多くのひとは、そんなふうには考えなかった。そんなくどくどしい「解釈」よりも、「集団で(アメリカと協力して)日本を守る」の方が簡便だし、「日本を守る」ということでは一致してしまうからだ。
 ここに「罠」がある。
 「新しいことば」にひとが出会ったとき、その知らないことばのなかに「知っている」ことばがあれば、それを自分なりにつなぎ合わせて考えてしまう。そしてたどりついた「答え」(自分なりの解釈)を点検することを忘れてしまう。
 「表現の自由は憲法に保障されている」は「新しいことば」には見えないけれど、見えないからこそ、テキトウに「自己解釈」のなかにとじこもるのかもしれないが、これはとても危険である。もう一度、憲法は何かから考え、その規定が誰に対して向けられているのかを見つめないといけない。

 「憲法」が誰に向けられてものであるかを認識すれば、安倍がやろうとしている憲法改正(2012年の自民党改憲草案)が、いかにむちゃくちゃなものであるかがわかる。安倍は憲法で権力を拘束するのではなく、逆に国民を拘束しようとしている。国民を安倍に服従させるための「法律」に格下げしようとしている。
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