近藤久也「あっち」(「ぶーわー」42、2019年09月10日発行)
「声」は不思議だ。私は「ことば」の「意味」よりも、「声」そのものの方に引きつけられてしまう。好きな「声」と、なじめない「声」、はっきり言って「嫌い」な声がある。
何度も書いている池井昌樹には、「好きな声」と「嫌いな声」がある。「嫌いな声」の方が多いのだが、その方が安心する。池井の場合は。
近藤久也は、どんな「声」か。いままであまり考えたことがなかったが、「あっち」という詩では近藤自身が「声」について書いている。
これは、どういう状況なのか。たぶん草むらでうたた寝をしていて、目をさます。虫がいる。じゃまだなあ。「あっち行け、しっしっ」と言ったかどうかわからないが、ふと、思ったのだろう。しかし、思った瞬間、もしかしたら虫の方が近藤に対して「あっち行け、しっしっ」と行っているのかもしれない。草っぱらは虫の棲家だ。
それから、まあ、自己を相対化して反省している、というとめんどうくさくなるが。
簡単に言いなおすと、自分というものについて考えたということだろう。別に考えなくてもいいのだが、考えてしまう。この、無駄、余分なところに「詩」がある。
で、無駄なことというのは、近藤にとっても無駄なことなのだけれど、近藤にとって無駄ならば、私には関係ないことである。だからというわけではないのだが、つまり、私自身のことではないのだから「こんな無駄なことを書いて」と思いながら、その「思い」のなかで、私は「誤読」する。
この部分で、私は「あっちはずっと前から」を「あっち行け、しっしっという声はずっと前から」と読んでしまうのだ。自分の肉体の中に「あっち行け、しっしっ」ということばがひそんでいて(つまり、そういう「声」を聞いた記憶がしっかり残っていて)、それが「いま」噴出してきている。近藤の中心になっている。
そしてその「声」は「あっち」を必然のようにもっている。抱え込んでいる。「あっち」はどこなのか、まるっきりわからないけれど「あっち」として在る。いや、これは正確ではなくて、きっと「ここ」ではないところという意識として、しっかり存在している。
「あっち」ということばは「こっち」ではない。「こっち」は隠されている。無意識に了解している。こういうことばを私は「キーワード」と呼んでいる。書いている人は書くことさえ忘れている意識になじんだ無意識の思想。そういうものとして「こっち」(近藤は、これを「からだの中」と言い換えていると思う)があり、それが「あっち」を浮かび上がらせる。
「あっち」というとき、「いったい/どんなやつが」「こっち」を認識し、「あっちへ行け、しっしっ」と言っているのか。
それははっきりとは書かれていない。「無意識の思想」だからはっきりとは書けない。でも、ことばには、その「印」みたいなものがあらわれてしまう。
「親しげ」に「ひびく」「ひびいてくる」のは、「あっち」を浮かび上がらせる「こっち」が近藤にとって深くなじんでいるものだからだ。
それを近藤は「しっしっ」という「意味」以前の「声」で追い払おうとしている。
「あっち行け、しっしっ」という「声」そのものを。
池井は「肉体にひそむ声」を「至上のもの」として信じている。
近藤は逆だ。「肉体にひそむ声」(肉体になってしまっている思想)というものは「絶対的」ではあるが、それは「至上のもの」とは呼べない。言い換えると「善」として無条件に受け入れるべきものではない。むしろ、「悪」として存在する。なぜなら、人間は誰でも自分がいちばん大切でかわいいからだ。邪魔する奴は「あっち行け、しっしっ」。
でも、その「悪」を、それでは完全にないものにしてしまう、とっぱらい、捨ててしまうかというと、そんなことはできない。そういうものがあるんだと納得して、「肉体」のなかに「同居」させて生きていこうとしている。「同居」を納得するために、こんな具合に「詩」にしてしまうのだ。
で、また、思うのだ。
こんなばかばかしい無駄を、よくもまあ書くもんだねえ、と。
すると、ほら。
ここに最初に書いた「無駄」ということばが出てきてしまう。「無駄」こそが「詩」という定義が、復活してきてしまう。
詩とは、そういうものなのだ。
いままでなかったような美しいことでも、ひとを感動させることでもなく、人間が必要としてしまう「無駄」としかいいようのないもの、役に立たないものが「詩」なのだ。
こう書くと近藤に叱られるかもしれないけれど。
「こんな感想を書くやつは、あっち行け、しっしっ」と言われてしまうかもしれないが、そういうことをきょうは考えた。
*
私は、詩の感想を書く。しかし、それは「評価」ではない。どの詩が優れているかというようなことは、私は考えない。「好き」「嫌い」は言うが、これはもう完全に「個人的な感情」であり、ひとと共有できるとしても「瞬間的」なものだ。すぐ変わってしまうものにすぎない。
私は、書かれていることばに出会い、出会ったときに、私のことばがどう動いたかだけを書いている。
私のなかにあるあいまいなものが、あることばによって励まされ、ととのえられ、形になるときがある。ととのえられればいいのかどうか、よくわからないが、ととのえてくれる力があればそれを借りてととのえてみる、ということ。でも、次の日は、それをこわしてみたくなる。とどまりたくないし、たどりつきたくない。
私は誰にも与したくない。私自身に対しても与したくない。どうしても私自身に与してしまうことが多いので、それには、われながらうんざりするけれど。
(近藤の詩とは関係がないことなのかもしれないが、感想を書いたあと思ったことなので、つづけて書いておく。)
*
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「声」は不思議だ。私は「ことば」の「意味」よりも、「声」そのものの方に引きつけられてしまう。好きな「声」と、なじめない「声」、はっきり言って「嫌い」な声がある。
何度も書いている池井昌樹には、「好きな声」と「嫌いな声」がある。「嫌いな声」の方が多いのだが、その方が安心する。池井の場合は。
近藤久也は、どんな「声」か。いままであまり考えたことがなかったが、「あっち」という詩では近藤自身が「声」について書いている。
草っぱらかどっか
目のまぶしさで
目さます
あっち行け、しっしっ
誰かがおっぱわれている
(おれかも)
あっちてどっちだ?
じっときいていると
あっちはずっと前から
からだの中、片隅にちっちゃく在るように
きこえてくる いったい
どんなやつがどんなやつを
おっぱらってるんだ?
乱暴な声がだんだんだんだん
親しげに低く小さく
ひびくひびいてくる
しっしっ
あっち行け、叱 叱
これは、どういう状況なのか。たぶん草むらでうたた寝をしていて、目をさます。虫がいる。じゃまだなあ。「あっち行け、しっしっ」と言ったかどうかわからないが、ふと、思ったのだろう。しかし、思った瞬間、もしかしたら虫の方が近藤に対して「あっち行け、しっしっ」と行っているのかもしれない。草っぱらは虫の棲家だ。
それから、まあ、自己を相対化して反省している、というとめんどうくさくなるが。
簡単に言いなおすと、自分というものについて考えたということだろう。別に考えなくてもいいのだが、考えてしまう。この、無駄、余分なところに「詩」がある。
で、無駄なことというのは、近藤にとっても無駄なことなのだけれど、近藤にとって無駄ならば、私には関係ないことである。だからというわけではないのだが、つまり、私自身のことではないのだから「こんな無駄なことを書いて」と思いながら、その「思い」のなかで、私は「誤読」する。
じっときいていると
あっちはずっと前から
からだの中、片隅にちっちゃく在るように
きこえてくる
この部分で、私は「あっちはずっと前から」を「あっち行け、しっしっという声はずっと前から」と読んでしまうのだ。自分の肉体の中に「あっち行け、しっしっ」ということばがひそんでいて(つまり、そういう「声」を聞いた記憶がしっかり残っていて)、それが「いま」噴出してきている。近藤の中心になっている。
そしてその「声」は「あっち」を必然のようにもっている。抱え込んでいる。「あっち」はどこなのか、まるっきりわからないけれど「あっち」として在る。いや、これは正確ではなくて、きっと「ここ」ではないところという意識として、しっかり存在している。
「あっち」ということばは「こっち」ではない。「こっち」は隠されている。無意識に了解している。こういうことばを私は「キーワード」と呼んでいる。書いている人は書くことさえ忘れている意識になじんだ無意識の思想。そういうものとして「こっち」(近藤は、これを「からだの中」と言い換えていると思う)があり、それが「あっち」を浮かび上がらせる。
「あっち」というとき、「いったい/どんなやつが」「こっち」を認識し、「あっちへ行け、しっしっ」と言っているのか。
それははっきりとは書かれていない。「無意識の思想」だからはっきりとは書けない。でも、ことばには、その「印」みたいなものがあらわれてしまう。
乱暴な声がだんだんだんだん
親しげに低く小さく
ひびくひびいてくる
「親しげ」に「ひびく」「ひびいてくる」のは、「あっち」を浮かび上がらせる「こっち」が近藤にとって深くなじんでいるものだからだ。
それを近藤は「しっしっ」という「意味」以前の「声」で追い払おうとしている。
「あっち行け、しっしっ」という「声」そのものを。
池井は「肉体にひそむ声」を「至上のもの」として信じている。
近藤は逆だ。「肉体にひそむ声」(肉体になってしまっている思想)というものは「絶対的」ではあるが、それは「至上のもの」とは呼べない。言い換えると「善」として無条件に受け入れるべきものではない。むしろ、「悪」として存在する。なぜなら、人間は誰でも自分がいちばん大切でかわいいからだ。邪魔する奴は「あっち行け、しっしっ」。
でも、その「悪」を、それでは完全にないものにしてしまう、とっぱらい、捨ててしまうかというと、そんなことはできない。そういうものがあるんだと納得して、「肉体」のなかに「同居」させて生きていこうとしている。「同居」を納得するために、こんな具合に「詩」にしてしまうのだ。
で、また、思うのだ。
こんなばかばかしい無駄を、よくもまあ書くもんだねえ、と。
すると、ほら。
ここに最初に書いた「無駄」ということばが出てきてしまう。「無駄」こそが「詩」という定義が、復活してきてしまう。
詩とは、そういうものなのだ。
いままでなかったような美しいことでも、ひとを感動させることでもなく、人間が必要としてしまう「無駄」としかいいようのないもの、役に立たないものが「詩」なのだ。
こう書くと近藤に叱られるかもしれないけれど。
「こんな感想を書くやつは、あっち行け、しっしっ」と言われてしまうかもしれないが、そういうことをきょうは考えた。
*
私は、詩の感想を書く。しかし、それは「評価」ではない。どの詩が優れているかというようなことは、私は考えない。「好き」「嫌い」は言うが、これはもう完全に「個人的な感情」であり、ひとと共有できるとしても「瞬間的」なものだ。すぐ変わってしまうものにすぎない。
私は、書かれていることばに出会い、出会ったときに、私のことばがどう動いたかだけを書いている。
私のなかにあるあいまいなものが、あることばによって励まされ、ととのえられ、形になるときがある。ととのえられればいいのかどうか、よくわからないが、ととのえてくれる力があればそれを借りてととのえてみる、ということ。でも、次の日は、それをこわしてみたくなる。とどまりたくないし、たどりつきたくない。
私は誰にも与したくない。私自身に対しても与したくない。どうしても私自身に与してしまうことが多いので、それには、われながらうんざりするけれど。
(近藤の詩とは関係がないことなのかもしれないが、感想を書いたあと思ったことなので、つづけて書いておく。)
*
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注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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