詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(36)

2019-12-04 15:26:40 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくはおまえの部厚い白い胸を力いつぱい踏みつけたい)

 「白」がつづいている。しかしこの部分では「あなた」ではなく「おまえ」ということばがつかわれている。「おまえの部厚い白い胸」の「おまえ」はこれまで書かれてきた「あなた」とは違う人間なのか。「ぼく」はあいかわらず「ぼく」であるが、同じ「ぼく」であると言えるのか。
 きのう「転調」ということばをつかったが、この詩では「転調」しているのだ。

おまえの弾力のある白い胸を
ぼくは天までとどけと踏みつけたい

 「天までとどく」のは何だろうか。「白い胸」ではないだろう。白い胸は踏みつけられている。天に届くはずがない。踏みつけられる「おまえ」の「声」か。あるいは踏みつける「ぼく」の「声」か。「怒り」か。
 「踏みつけたい」ということばに目を向けてみる。「踏みつける」ではなく「踏みつけたい」。つまり、踏みつけてはいない。思っているだけだ。その思い、「怒り」を届けたいのだ。


*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

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「読解力」低下を批判できるのか

2019-12-04 11:34:39 | 自民党憲法改正草案を読む
「読解力」低下を批判できるのか
             自民党憲法改正草案を読む/番外309 (情報の読み方)

 2019年12月04日の読売新聞(西部版・14版)の1面と3面。国際学力調査の結果が載っている。
 1面の見出し。

 日本「読解力」急落15位/長文読み書き減 要因か

 3面の見出し。

「情報探し出す」苦手

 私は、この見出しを見て笑い出してしまった。
 「長文の読み書き」をさせないようにしているのは誰か。「情報の探し出し」をさせないようにしているのは誰か。
 「現実」の問題から考えてみよう。
 「桜を見る会」で安倍の「公金私物化」が問題になった。いろいろなひとが、いろいろな「情報」を探し出してきて、問題点を指摘した。「招待者名簿」を野党が要求した。ホテルニーオータニの「前夜祭」の参加料金が5000円というのは、ホテルニューオータニの「宣伝資料」と比較すると安すぎる。共産党の田村は、郵送資料の「仕分枠」に目をつけ「60」という番号でくくられているのは「安倍枠」ではないか、と推論した。
 これに対して安倍(自民党)は、どうしたか。「名簿」は廃棄した。「料金はホテルが設定した」「名簿がないので60枠がどのようなものであるか確認できない」。
 「現実」では、安倍にとって不都合なことはすべて隠蔽される。そして、安倍の都合にあわせて、国会答弁がおこなわれる。
 日本で求められている「読解力」は、安倍がどう考えているか、その考えを「正しい考え(正解)」にするためにはどうすればいいかだけが求められている。不都合なもの(安倍の答弁と矛盾するもの)は廃棄される。問題点の指摘に対しては「わからない」と答える。そういうことが横行している。
 そして、その安倍の「正解の押しつけ」を支えているのが、官僚である。学校で優秀な成績を納め、偏差値の高い大学に入り、国家公務員の試験に合格した人間である。彼らは高給取りである。彼らはいずれも「求められる答えにあわせて答える人間」である。「求められない答えは絶対に答えない人間」である。日本では、権力者が求める「解答」以外の「考え」をもつことは禁じられている。そういう現実のなかで、どんな「読解力」が育つだろうか。どんな「情報の探し方」が求められるだろうか。
 3面には「コピペ解答」ということばがあった。自分で考えず、答えになりそうなものをコピーして張り付ける。それが日本で求められていることである。
 学校は学校で、「進学校」が重視され、どの大学に何人合格者を出したかが「進学校」の評価付けに利用されている。大学は大学で、きっと何人官僚を出したかを競うのだろう。あるいは、どれだけ有名企業に就職させたか、を競うのだろう。企業は企業で、いかに企業がもうかるかだけを追及し、それ以外の視点を排除する。

 こんな現実のなかで「読解力」など育つわけがない。しろ白、批判するにしろ、自分の考えを論理的に展開するためには、自分の考えを支える別の情報が必要になる。「書かれていないこと」を自分の「知っていること」のなかから探し出し、それを組み立てて論理にする。そういうことばの作業が必要である。
 いまは、ほとんどのひとが、そういうことをしていない。安倍に気に入られるための「論理」を組み立てることに夢中である。「求められている答え」を「忖度」し、先取りして用意する。そういうことが権力者から「評価」される。
 新聞そのものが、そういう姿勢である。
 共産党・田村が予算委員会で展開した「60枠」の追及を、すべて文字起こしし、新聞に掲載してみればいい。そうすれば「読解」とはどういうことか。「情報」を見抜くとはどういうことかを学ぶための貴重な資料になる。同時に、安倍を初めとする権力者が、どういう具合に情報を隠すかという「手口」もわかる。
 そういうことをしないから、「読解力」が下がるのだ。
 田村と安倍の議論を小中学生、高校生は読まない。だから、それを新聞に載せてもこどもの学力向上につながらない、と言うひとがいるかもしれない。しかし、「学力」というのは「学校」で教えられれば、それで身につくというものではない。周囲のひとの「ことば」や「態度」から知らず知らずに身につける部分もたくさんある。大人が安倍批判をしているのを聞く。問題点の追及の仕方を聞く。そいうことが影響するのだ。「学力」ではなく「人間力」というものが、大人の振る舞いを見て、自然に身につき、それが「学力」に反映するのだ。「人間力」をともなわない「学力」は、自分を出世させるための「忖度力」にすぎない。
 これを、逆の言い方でいうと、先に書いたことになる。
 こどもたちは大人の生き方をみる。権力にこびへつらう姿をみる。そして、「そうなのか、権力に迎合すること、権力の求めることを先取りして言えば、貧乏をせずにすむ」と判断する。権力の用意した解答を「コピー&ペースト」すのことを学ぶ。
 「学力」というのは「学校現場」だけで形成されるのではなく、社会全体の力で形成されるものなのだ。
 「読解力」を向上させるには、いま社会で起きていることを、どう「読解」するか、そのためには何が必要かから出発する必要がある。
 読売新聞の1面には「読解力」の推移が載っている。
 民主党政権が誕生した2019年には8位。第二次安倍内閣が誕生した12年には4位。つまり、民主党政権下では「読解力」が向上している。ところが第二次安倍政権下では、12年の4位が15年には8位、そして18年には15位と下がっている。「読解力」が「忖度力」にすり変わったことが、「読解力低下」の要因といえないだろうか。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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