詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(51)

2019-12-19 10:01:01 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (象は)

海の重圧の底から生まれる
象は千年の昔から言葉を忘れている

 たしかに海の底の重圧を生き延びるには巨大なからだが必要だろう。重圧に耐えるということが千年つづけば、ことばを忘れるだろう。堪えることだけで精一杯でことばを語ることを忘れるだろう。
 象の大きなからだのなかには、ことばにならなかったことばが詰まっている。語られなかったことばが象の肉体をつくっている。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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ケン・ローチ監督「家族を想うとき」(★★★★★)

2019-12-19 08:21:22 | 映画
ケン・ローチ監督「家族を想うとき」(★★★★★)

監督 ケン・ローチ 出演 クリス・ヒッチェン、デビー・ハニーウッド、リス・ストーン、ケイティ・プロクター

 この映画の最後は非常に複雑だ。複雑にさせているのは原題の「Sorry We Missed You 」ということばにある。私は英語を話さない。イギリス人の友人もいない。だから「誤読」するしかないのだが。
 もし父親が家族を捨てて家を出ていく。もちろんよりよい収入を求めて出て行くのだろうが、そのとき「we」と書くかどうか。主語は「I 」だろう。さらに過去形ではなく「I will miss you 」(きみたちが恋しくなるだろう)ではないのか。
 なぜ「we」であり、また「missed」と過去形なのか。
 手がかりは映画の中にある。
 父親が窃盗集団に襲われてけがをする。病院へゆく。妻が付き添っている。夫の会社から苦情の電話が入る。その電話を奪い取って、妻が叫ぶ。「私たち一家をばかにしないで」(英語で何と言ったかわからないが、字幕は、そういう感じだった)。このとき「私たち(we)」がつかわれている。「私を」ではなく「わたしたちを」。
 さらに、父の車のカギを隠した娘が、カギを渡すときこんなことを言う。「このカギさえなければ、元の家族にもどれると思って隠してしまった」と。元の家族は「私たち(we)」であり、その「元の」につながるのが「missed」なのだ。「昔の家族がなつかしい、いまはどうしてこんなのだろう」と想い続けている。少女の気持ちは「missed」ではなく「miss」という「現在形」だと想う。
 息子の反抗も同じだ。「昔のおとうさんにもどって」というようなことを言う。昔が恋しい。
 これは父親も、その妻も同じである。いまは苦しい。昔がなつかしい。
 それが最後で「We Missed You 」と過去形に変わる。「過去形」に変わるのは(あるいは変えるのは、と言った方がいい)、主語が「I 」(ひとり)ではなく「we」(複数、私たち)に変わったからだ。父は、いったん家族を捨て去る。けれど、そのとき父は「ひとり」ではない。「私たち」であることを強く実感している。もう、負けない。「私たちをばかにするな」という妻のことばの「私たち」が生きている。「昔が恋しい」(昔がなつかしい)を通り越して、「かつては昔がなつかしい」だった。いまは家族が「団結」し直している。いろいろなことがあって「we」にもどっている。だから「過去形」で語るのだ。
 「未来」が見えない結末だが、その見えない「未来」に立ち向かう気持ちが、「いままで」を「過去形」にしてしまう。そこに希望がある。生きていく力がある。父はいったん家族を捨てる。家族はそれを止めようとする。けれど受け入れる。「we」は形式的には破壊されているが、こころは「we」にもどっている。
 この複雑なことばの中に、ケン・ローチのふつうの人々によりそう「祈り」のようなものを感じる。
 それにしても。
 世の中はいつからこの映画に描かれるように、ただひたすら合理主義を追求するだけのシステムになったのか。しかも、それは「資本家」にとっての合理主義である。利益が出るなら利益を分け与えるが、利益が出ないならそれは労働者の責任、というシステムである。ひとりひとりには「家族」がある。つまり、「事情」というものがあるのだが、それは「合理主義的契約」のなかには含まれない。「事情」を捨てる。「事情」をすべて「自己責任」にしてしまう。
 そうしたなかにあって、訪問介護の仕事をしている妻と向き合う、介護される人の生き方に、何か救われるものがある。介護される老人が、妻の髪をブラッシングすることを「生きる喜び」にしている。ひとと触れ合い、人の役にたつ。それはブラッシングは単に髪をととのえることではない。肉体が触れ合うことで疲れをとかしてしまうのだ。老人に髪をまかせている妻の姿は、髪を梳いてもらっているというよりも、ゆったりと湯船にひたっているような解放感にあふれていた。
 そこには、もうひとつの「家族」(we)がある。
 父親のところに警察から電話がかかってくる。息子が万引きをしたのだ。それを知った同僚が父親を心配する。父親の「家族」を心配する。そこにも「we」(家族)の姿がある。
 「家族」の経済的敗北を描きながら、経済的敗北には負けないという「意思表示」を感じる。「負けさせないぞ」というケン・ローチの怒りのこもった、苦しくなるけれど、同時に胸が熱くなる映画である。

(2019年12月15日、KBCシネマ1)

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