詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

藤井晴美『イブニンゲケア』

2019-12-25 10:11:41 | 詩集
藤井晴美『イブニンゲケア』(私家版、2019年12月05日発行)

 藤井晴美『イブニンゲケア』の「青から出た悪い口」にこんな一行がある。

これは、事実ではなく詩です。

 しかし、逆にも言えるだろう。「これは、詩ではなく事実です」。詩と事実はいつでも入れ替えが可能である。
 私は、いつまでも詩のままである詩よりも、詩が事実に変わる瞬間が好きである。たとえば、巻頭の「新虚構主義」。

   僕は呑みたいすべてが、否、ぼくはことばを嘔吐した。不可能と可能は意識のカ
ラクリの両極かもしれない。窓を開けているので隣の夕食の匂いが入ってくる。肉挽き
機が目に浮かぶが、うるさい!

 「隣の夕食の匂いが入ってくる」は「現実/事実」だ。しかし、「肉挽き機が目に浮かぶ」は「事実/現実」ではなく、「詩」である。
 どう違うか。
 「隣の夕食の匂いが入ってくる」はふつうに体験できることである。匂いから、きょうはハンバーグか、きょうはカレーか、きょうはおでんか……とひとは想像する。こういう想像をひとは「共有」している。それが「現実/事実」というものである。
 ところが、その「共有」できる「現実/事実」から出発して、きょうはハンバーグかと思ったあと、ハンバーグをつくるときは挽き肉をつかう。その挽き肉をつくるための機械が目に浮かぶ、となると、これは個人的な体験、個人的な想像であって、すべてのひとに「共有」されるとは限らない。それはあくまでも藤井の「個人的な現実/事実」である。
 その「個人的な現実/事実」を、「個人的な言語によって描写された事実」と言い直すと、それが「詩」であることがわかる。詩とはいつでも「個人的な言語」によって書かれている。藤井の詩は、一見すると「日本語」の詩に見えるが、厳密に言えば「藤井語」によって書かれている。
 そして、この「個人的な現実/事実」がいったん「詩」というかたちで言語化された瞬間から、いままで存在しなかった「事実/現実」が姿を見せる。ハンバーグ、挽き肉、肉挽き機というつながりが見えてくる。そのつながりは、これまで無視されてきた(隠されてきた)が藤井によって明るみに出された。
 その衝撃が、ふたたび、そのことばを詩にする。

 詩から現実、現実から詩へ。

 この動きは、いわば手術台の上のこうもり傘とミシンの出会いのようなものである。その存在はだれもが知っている。しかし、その存在を明確につないで見せたひとはいない。「可能性」が瞬間的に噴出し、それが欲望を刺戟する。
 「ことば」の欲望を。
 「ことばへの欲望」というよりも、「ことばの肉体が抱え込んでいる欲望」が「藤井の肉体」になる。だから、「肉挽き機が目に浮かぶ」ということばに触れた瞬間、私は「肉挽き機」だけではなく「藤井の肉体」を思い浮かべてしまう。「私の肉体」ではない、ひとりの生身の「肉体」を。私は藤井には会ったことがない。だからそのときの「藤井の肉体」というのは、いわば「渾沌」から分節されたばかりの、まだかたちになっていない「肉体」というものである。つまり、「定型」をもっていない。だから、そのまま「私の肉体」に重なる。「藤井の肉体」と「私の肉体」が「分節されたばかりの不定形の肉体」のなかで融合する。セックスする。
 私は、これをことばのセックス、もっと厳密に言えばことばの肉体のセックスと呼んでいる。「誤読」といえば「誤読」なのだが、私は、こういう「誤読」が好きだ。こういう「誤読」をするために、ことばを読んでいる。「私の肉体」が「分節されたばかりの肉体」を媒介として「他人の肉体」になってしまう。この快感を味わうために、「ことばの肉体」を読んでいる。 

 こんな書き方では藤井の詩がどんなものであるかわからないかもしれないが、「あれ、どんな詩」とほんとうに思うならば、詩集を買って読んでください。
 読んでみようかな、と思うひとへのプレゼントとして(きょうはクリスマスだからね)、次の一行を引用しておく。「流星の町」に出てくる。

ここに何かが描かれた。線は意味を持つために骨抜きで休憩した。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(57)

2019-12-25 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (大きな幹によじのぼりたい)

その幹から黄金虫が一匹
サハラ砂漠の太陽へむかつて飛びたつた

 「黄金虫」は嵯峨である。「よじのぼりたい」という欲望が、嵯峨を黄金虫に変える。そして、黄金虫は嵯峨の欲望にしたがって「サハラ砂漠」へ飛び立つ。ここに書かれているのは、欲望の現実である。小さな風景を描いているわけではない。
 欲望から詩を読み直せば、

駱駝は砂漠のなかを大きな数字を踏んで歩いていく
「無限」ということを考えよう

 という詩も、「歩いていきたい」「考えたい」という嵯峨の欲望だったのだ。

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