佐々木安美『佐々木安美詩集』(現代詩文庫245)(思潮社、2019年11月30日発行)
佐々木安美の『新しい浮子 古い浮子』について何か書いたような記憶がある。書こうとしたことがあるだけかもしれない。『佐々木安美詩集』の冒頭の「最上川」は『棒杭』という詩集に収録されている作品。読んだことがあるかどうか、わからない。たぶん読んだことがない。
わかったような、わからないような、詩である。
「流れる」と「引きとめる」が対になっている。「流れない」を「引きとめる」と言い直していることになる。「とめる」のなかに「流れない」がある。「とめる」は「放してやる」と対になっている。「引きとめる」と「とめる」はほんとうは違うが、「とめる」ということばで見つめると、全体の関係がわかりやすくなる。「放してやる」と「流れる」。ここにも対があることになる。
さて。
さっき省略した「引きとめる」の「引き(ひく)」は、どうとらえなおすべきか。
この詩には、もうひとつ「見つめる」という動詞がある。この「見る」が「引きとめる」の「引き(引く)」と対になっている。
「見る」ということ、目の力で、流れていくものを「引きとめる」。ひっぱって、とめる。塞きとめるではない。塞ぐのではない。
この「見る」は二連目で、突然別の動詞に転換する。
「書く」は「書き表わす」ということばがあるくらいだから、基本的に「表わす」ものであって「隠す」ものではない。「書く」に「隠す」という要素があるとすれば、意識を「書かれたもの」の方へ引っ張ることで、見つけられたくないものを隠すということだろう。「書くことの中に隠れる」とは、そういう意味になるだろう。
そうやって隠したものは、どうするのかな?
「流れ」にもどって言うと、そのまま「ためつづける」のか、それともそっと誰も見ていないときを見計らって「放してやる」のか。「放してやったもの」は、どうなるのかなあ。「隠したもの」が「流れる」要素をもっているかどうか、それによって違ってくだろう。どうしても、たまりつづけるかもしれない。
「流れる」の「主語」は「わたし」から「日々」にかわっている。突然、変化する。でも「日々が流れる」というのは「比喩」だね。「日々」が流れるの比喩なのか、「流れる」という動詞が日々の比喩なのか。特性はむずかしい。両方の比喩かもしれない。つまり「日々が流れる」ということば自体が何かの比喩である可能性もある。「日々」になるまえの主語「わたし」を比喩で言い直すと「日々が流れる」になるのかもしれない。
比喩というのは何かの特徴を浮かび上がらせるためにつかわれる。しかし、そういう強調によって何かを隠すということもあるだろう。「書く」という動詞を考えたときに動いたものがここでも動いている。
そなんことを考えていると……。
「隠す」という他動詞が、ここでは「隠れる」と言い直されていることに気づく。視点が、微妙に、しかし、確実に動いている。移動している。
視点の位置を変化させた上で、詩はつづいていく。
「外側」というのは「表面(表側)」とも言い直すことができる。「隠れる」と対になることばを「表わす」と想定したが、「隠れる」と対になるのは「表われる」、「隠す」と対になるのが「表わす」ということになる。
そしてこの「表われる」は「晒される」に変わっている。「晒される」と書くと「受け身」になるが、それは「晒す」でもあるだろう。そうなることを「自覚」している。あるいは「覚悟」している。
だからこそ、このあと
という具合に「決意」ということばも登場して、詩を引き締める。
でも、私は、こういう「決意」のようなものには、あまり関心がない。「意味」はそれぞれの人間が独自に持っているものだから、他人の「意味」に同意したって何も始まらないと考えてしまう。
それよりも、一連目の、
という二行の、「間」が非常におもしろいと思う。
私は、ここまで動詞の対と、その揺らぎのようなものを追ってきたが、それを支えているのが「間」なのだ。肉体の、「間」。生きていくときの「呼吸」のようなものが、ここにことばにならないまま出ている。
だからなのだと思うが、この二行は詩の最後でもう一度繰り返される。
佐々木のことばは静かだが、その静かさの奥に、この「間」があるのだと思う。「見つめる」ことで時間をとめる「間」が。
*
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佐々木安美の『新しい浮子 古い浮子』について何か書いたような記憶がある。書こうとしたことがあるだけかもしれない。『佐々木安美詩集』の冒頭の「最上川」は『棒杭』という詩集に収録されている作品。読んだことがあるかどうか、わからない。たぶん読んだことがない。
流れないわたしは
流れるわたしを引きとめて
ひととき 見つめる
そして そっとまた
流れの中にわたしを放してやる
わかったような、わからないような、詩である。
「流れる」と「引きとめる」が対になっている。「流れない」を「引きとめる」と言い直していることになる。「とめる」のなかに「流れない」がある。「とめる」は「放してやる」と対になっている。「引きとめる」と「とめる」はほんとうは違うが、「とめる」ということばで見つめると、全体の関係がわかりやすくなる。「放してやる」と「流れる」。ここにも対があることになる。
さて。
さっき省略した「引きとめる」の「引き(ひく)」は、どうとらえなおすべきか。
この詩には、もうひとつ「見つめる」という動詞がある。この「見る」が「引きとめる」の「引き(引く)」と対になっている。
「見る」ということ、目の力で、流れていくものを「引きとめる」。ひっぱって、とめる。塞きとめるではない。塞ぐのではない。
この「見る」は二連目で、突然別の動詞に転換する。
書く
そして隠れる
書くことの中に隠れる
流れ得ないものとなって隠れる
「書く」は「書き表わす」ということばがあるくらいだから、基本的に「表わす」ものであって「隠す」ものではない。「書く」に「隠す」という要素があるとすれば、意識を「書かれたもの」の方へ引っ張ることで、見つけられたくないものを隠すということだろう。「書くことの中に隠れる」とは、そういう意味になるだろう。
そうやって隠したものは、どうするのかな?
「流れ」にもどって言うと、そのまま「ためつづける」のか、それともそっと誰も見ていないときを見計らって「放してやる」のか。「放してやったもの」は、どうなるのかなあ。「隠したもの」が「流れる」要素をもっているかどうか、それによって違ってくだろう。どうしても、たまりつづけるかもしれない。
隠れるままのうちに日々が流れる
流れる日々のうちにも流れ得ないものとなって隠れる
「流れる」の「主語」は「わたし」から「日々」にかわっている。突然、変化する。でも「日々が流れる」というのは「比喩」だね。「日々」が流れるの比喩なのか、「流れる」という動詞が日々の比喩なのか。特性はむずかしい。両方の比喩かもしれない。つまり「日々が流れる」ということば自体が何かの比喩である可能性もある。「日々」になるまえの主語「わたし」を比喩で言い直すと「日々が流れる」になるのかもしれない。
比喩というのは何かの特徴を浮かび上がらせるためにつかわれる。しかし、そういう強調によって何かを隠すということもあるだろう。「書く」という動詞を考えたときに動いたものがここでも動いている。
そなんことを考えていると……。
「隠す」という他動詞が、ここでは「隠れる」と言い直されていることに気づく。視点が、微妙に、しかし、確実に動いている。移動している。
視点の位置を変化させた上で、詩はつづいていく。
わたしの中に隠れる
わたしがいてその中に隠れる
隠れるわたしの外側にいるわたしが
隠れているわたしの外側に
そしていつも晒されている
「外側」というのは「表面(表側)」とも言い直すことができる。「隠れる」と対になることばを「表わす」と想定したが、「隠れる」と対になるのは「表われる」、「隠す」と対になるのが「表わす」ということになる。
そしてこの「表われる」は「晒される」に変わっている。「晒される」と書くと「受け身」になるが、それは「晒す」でもあるだろう。そうなることを「自覚」している。あるいは「覚悟」している。
だからこそ、このあと
浮かばれない決意と
という具合に「決意」ということばも登場して、詩を引き締める。
でも、私は、こういう「決意」のようなものには、あまり関心がない。「意味」はそれぞれの人間が独自に持っているものだから、他人の「意味」に同意したって何も始まらないと考えてしまう。
それよりも、一連目の、
ひととき 見つめる
そして そっとまた
という二行の、「間」が非常におもしろいと思う。
私は、ここまで動詞の対と、その揺らぎのようなものを追ってきたが、それを支えているのが「間」なのだ。肉体の、「間」。生きていくときの「呼吸」のようなものが、ここにことばにならないまま出ている。
だからなのだと思うが、この二行は詩の最後でもう一度繰り返される。
あれは生きているのか
ひととき 見つめる
そして そっとまた
流れの中にわたしを放してやる
佐々木のことばは静かだが、その静かさの奥に、この「間」があるのだと思う。「見つめる」ことで時間をとめる「間」が。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
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