詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

佐々木安美『佐々木安美詩集』(現代詩文庫245)

2019-12-24 18:38:54 | 詩集
佐々木安美『佐々木安美詩集』(現代詩文庫245)(思潮社、2019年11月30日発行)

 佐々木安美の『新しい浮子 古い浮子』について何か書いたような記憶がある。書こうとしたことがあるだけかもしれない。『佐々木安美詩集』の冒頭の「最上川」は『棒杭』という詩集に収録されている作品。読んだことがあるかどうか、わからない。たぶん読んだことがない。

流れないわたしは
流れるわたしを引きとめて
ひととき 見つめる
そして そっとまた
流れの中にわたしを放してやる

 わかったような、わからないような、詩である。
 「流れる」と「引きとめる」が対になっている。「流れない」を「引きとめる」と言い直していることになる。「とめる」のなかに「流れない」がある。「とめる」は「放してやる」と対になっている。「引きとめる」と「とめる」はほんとうは違うが、「とめる」ということばで見つめると、全体の関係がわかりやすくなる。「放してやる」と「流れる」。ここにも対があることになる。
 さて。
 さっき省略した「引きとめる」の「引き(ひく)」は、どうとらえなおすべきか。
 この詩には、もうひとつ「見つめる」という動詞がある。この「見る」が「引きとめる」の「引き(引く)」と対になっている。
 「見る」ということ、目の力で、流れていくものを「引きとめる」。ひっぱって、とめる。塞きとめるではない。塞ぐのではない。
 この「見る」は二連目で、突然別の動詞に転換する。

書く
そして隠れる
書くことの中に隠れる
流れ得ないものとなって隠れる

 「書く」は「書き表わす」ということばがあるくらいだから、基本的に「表わす」ものであって「隠す」ものではない。「書く」に「隠す」という要素があるとすれば、意識を「書かれたもの」の方へ引っ張ることで、見つけられたくないものを隠すということだろう。「書くことの中に隠れる」とは、そういう意味になるだろう。
 そうやって隠したものは、どうするのかな?
 「流れ」にもどって言うと、そのまま「ためつづける」のか、それともそっと誰も見ていないときを見計らって「放してやる」のか。「放してやったもの」は、どうなるのかなあ。「隠したもの」が「流れる」要素をもっているかどうか、それによって違ってくだろう。どうしても、たまりつづけるかもしれない。

隠れるままのうちに日々が流れる
流れる日々のうちにも流れ得ないものとなって隠れる

 「流れる」の「主語」は「わたし」から「日々」にかわっている。突然、変化する。でも「日々が流れる」というのは「比喩」だね。「日々」が流れるの比喩なのか、「流れる」という動詞が日々の比喩なのか。特性はむずかしい。両方の比喩かもしれない。つまり「日々が流れる」ということば自体が何かの比喩である可能性もある。「日々」になるまえの主語「わたし」を比喩で言い直すと「日々が流れる」になるのかもしれない。
 比喩というのは何かの特徴を浮かび上がらせるためにつかわれる。しかし、そういう強調によって何かを隠すということもあるだろう。「書く」という動詞を考えたときに動いたものがここでも動いている。
 そなんことを考えていると……。
 「隠す」という他動詞が、ここでは「隠れる」と言い直されていることに気づく。視点が、微妙に、しかし、確実に動いている。移動している。
 視点の位置を変化させた上で、詩はつづいていく。

わたしの中に隠れる
わたしがいてその中に隠れる
隠れるわたしの外側にいるわたしが
隠れているわたしの外側に
そしていつも晒されている

 「外側」というのは「表面(表側)」とも言い直すことができる。「隠れる」と対になることばを「表わす」と想定したが、「隠れる」と対になるのは「表われる」、「隠す」と対になるのが「表わす」ということになる。
 そしてこの「表われる」は「晒される」に変わっている。「晒される」と書くと「受け身」になるが、それは「晒す」でもあるだろう。そうなることを「自覚」している。あるいは「覚悟」している。
 だからこそ、このあと

浮かばれない決意と

 という具合に「決意」ということばも登場して、詩を引き締める。
 でも、私は、こういう「決意」のようなものには、あまり関心がない。「意味」はそれぞれの人間が独自に持っているものだから、他人の「意味」に同意したって何も始まらないと考えてしまう。
 それよりも、一連目の、

ひととき 見つめる
そして そっとまた

 という二行の、「間」が非常におもしろいと思う。
 私は、ここまで動詞の対と、その揺らぎのようなものを追ってきたが、それを支えているのが「間」なのだ。肉体の、「間」。生きていくときの「呼吸」のようなものが、ここにことばにならないまま出ている。
 だからなのだと思うが、この二行は詩の最後でもう一度繰り返される。

あれは生きているのか
ひととき 見つめる
そして そっとまた
流れの中にわたしを放してやる

 佐々木のことばは静かだが、その静かさの奥に、この「間」があるのだと思う。「見つめる」ことで時間をとめる「間」が。





*

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2019年12月24日(火曜日)

2019-12-24 11:45:08 | 考える日記


 巨大な木がある。冬、真下に立って見上げるとどこが梢なのかわからない。どの枝先が一番空に近いのか。その枝とは逆に地中には根が広がっている。肉眼では見えない。
 巨大な木を見上げるとき、木と私は別個の存在なのだが、別個の存在であると考えるはじめると、どうにも納得ができない。
 別個ではなく「ひとつ」と感じるのだ。
 しかし、すぐにその考えに仕返しされる。
 私は手を天へ向かって伸ばすことはできる。しかし、足はどんなに工夫しても地の中へは広がっていかない。
 「ひとつ」になれるはずがない。
 何が邪魔しているのだろうか。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(56)

2019-12-24 09:13:15 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくが道に迷つたのか)

あるいは炎えあがる砂漠の道が行衛に迷つたのか

 「行衛」は何と読むのか。「ゆくえ」と読んでいいのかどうかわからない。
 こういうとき、手がかりは「動詞」である。
 ぼくが「迷う」、砂漠の道が「迷う」。
 道に迷うことは誰もが体験する。しかし、このとき「迷う」が成り立つのは道が動かないからである。「選択」を間違うことを迷うという。
 逆に道が「迷う」としたら、どういうときか。人間が動かないときである。人間が動かないときは、どんな道も道ではなくなる。人間は(ぽくは)、そのとき、どうしているのか。

一頭の獅子が逞しく立つている

 獅子になって、そこにいる。ぼくが「迷つたのか」は反語である。迷ってはいない。ぼくは、ここに「逞しく」立っている。迷っているのは道の方である。獅子は比喩ではなく「逞しく」の修飾語なのだ。











*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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