詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

表現と主張(私は猫ではない)

2019-12-02 11:01:03 | 自民党憲法改正草案を読む
表現と主張(私は猫ではない)
             自民党憲法改正草案を読む/番外308(情報の読み方)

 2019年12月02日の読売新聞(西部版・14版)の1面から2面にかけて、山崎正和の寄稿が載っている。「表現と主張 履き違え」というタイトルがついている。
 そこに書かれている「表現」と「主張」の定義が、とても奇妙である。

表現は本来的に謙虚な営みであって、最初から表現相手に対する敬意を前提にしている。ひとは相手の好意を得ようとして顔かたちや仕草をととのえるわけだが、その相手が自分の尊敬する人でなければ努力の意味がない。(略)(だから)猫を相手に身繕う人はいない。

主張は一種の自己拡張行為であって、根本的に相手に影響を与えて変えようとする動機に基づいている。敵意からであれ好意からであれ、相手を啓蒙・教育して、自分の考えに従わせようとする。早い話が、主張なら猫を相手にしてもできるのであって、それが飼い主の躾けというものだろう。

 読んだ瞬間、ぽかーんとしてしまう。開いた口がふさがらない。「反論」の方法がみつからない。
 「反論」したいことは、いろいろあるが

主張は(略)相手を啓蒙・教育して、自分の考えに従わせようとする

 という定義、それを補足して

主張なら猫を相手にしてもできる(略)、躾けというものだ

 というのは、山崎の(そして、安倍の)考え方を露骨に語っている。(安倍は、猫、とは言わずに「あんな人たち」と言うだろうが。)

 まず、「表現と主張 履き違え」という山崎の「文章」が「表現」か「主張」か、どちらであるかということから始めよう。山崎は読者を「自分の尊敬する人」と考えているか。考えていないだろう。人間ではなく、猫を例に引いているところに、それが端的にあらわれている。だから、この文章で、山崎は何かを「表現」しようとは思っていないことになる。「表現」でなければ「主張」ということになる。だから、山崎は、

読者を啓蒙・教育して、自分の考えに従わせようとする

 を実践していることになる。つまり、読者を猫のように「躾け」ようとしている。
 これはなんとも読者をばかにした態度ではないだろうか。

 山崎は、これに対して、「表現と主張」という一般的なテーマではなく、「あいちトリエンナーレ」をめぐってのことを書いた、というだろう。つまり「芸術における表現と、芸術における主張」と限定して書いたというだろう。
 でもねえ。
 「芸術」って猫にみせるためのもの? あいちトリエンナーレは、金を払えば猫に見せられるもの? 猫を例に出した段階で、山崎は、読者は猫と同じだから、「躾け」ればいいと思っている。読者を「躾ける」ために、これを書いたことになる。

 「芸術」については、こんなふうに定義している。

かつては全面的に芸術家の表現であった造形は20世紀初めから性格を変え、今では大部分が作家の自己主張の産物に成り果ててしまった。
 長い間、芸術はパトロンを相手とする表現だったものが、パリの印象派、ウィーンの分離派あたりから立場を変え、大衆を相手とする啓蒙を目指し始めた。21世紀の今日では造形は百花繚乱、芸術家の「個性」と称する自己主張の展示場と化している。

 「全面的に芸術家の表現であった造形」は、「芸術はパトロンを相手とする表現」と言い直されている。前に書かれている文章と関連づけると、山崎にとって「芸術(造形)」とは、パトロンを相手に「敬意」をあらわし、パトロンの「好意を得る」ためのものということになるだろう。パトロンは「出資者」と言い換えることができる。たしかにパトロンの好意を得て、芸術家は金をもらい食っていたのだ。
 ところがあいちトリエンナーレに出品された慰安婦少女像は、そうではない。パトロン(安倍?/税金の再配分を監督・指揮する者)に敬意をあらわしていないし、安倍の好意を得ようともしていない。だから、それは山崎の定義に従えば芸術ではない。税金を払っているひとの中には、安倍批判者もいるのに、そういう人は無視して、税金を安倍批判につかうな、というのがあいちトリエンナーレへの批判の主力であった。名古屋市長も、そういう「主張」をしていた。
 (一方、いまでも「芸術」は、その鑑賞者が払ってくれる金で生計を立てている。貴族のようなパトロンはいないが、ふつうの市民が、パトロンには見えないけれどパトロンであるということは、ちょっと面倒になるので、これ以上書かない。あくまで、山崎のつかっている「パトロン」に限定して書いておく。)
 ここから逆に、山崎の「芸術表現に対する定義」を言い直せば、パトロンである権力者に敬意をあらわし、パトロンである権力者の好意を得るためのものが「芸術」である、ということになる。
 では、そのとき山崎の言う「芸術表現(パトロンの気に入るもの)」は「主張」を持たないのか。そんなことはないだろう。こうすれば権力者に対して敬意を持つことを表現できるし、こうすれば権力者の好意を得られるという「主張」を隠し持っていることになる。だれでも権力者に気に入られるようにしなさい、その方法を教える(啓蒙する)のが芸術の仕事ということになる。
 山崎は、あいちトリエンナーレの作品には「反論の自由」が欠如していたとも主張している。
 しかし「反論の自由欠如」というのは、単に、開催時に山崎がどこにも批判を書かせてもらえなかった(注文が来なかった)ということにすぎないだろう。だれもあいちトリエンナーレを批判してはいけないとは言っていないし、批判はネットにはあふれていた。あふれていたからこそ、名古屋市長はそれを「支援者」として利用して、展覧会を中止させた。
 どんな展覧会も、わざわざ「展覧会批判のための場」というものを併設はしていない。展覧会を見て、よかったというのも、つまらなかったというのも、鑑賞者の自由であり、それを制限しているような展覧会はない。書きたいことがあれば書き、言いたいことがあれば言う。それだけである。山崎に、あいちトリエンナーレに対する批判を書かせてくれるパトロンが読売新聞以外になかった、ということが山崎にとっての問題なのだ。





#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(34)

2019-12-02 08:35:33 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (白樺の幹から)

雨雲がずりおちるように
あなたの白い豊満(ゆたか)な肩から
重い衣裳がずりおちる

 「ずりおちる」は「ずれて、おちる」。そこにあるべきものが、そこから「ずれて」、その結果「落ちる」ということだと思うが、私はこの音になじめない。「ずれる」は「すれる(こすれる)」でもあると思う。接触がある。摩擦がある。それがそのまま「音」になる感じだ。重苦しい音だ。不快な音だ。
 この印象は、次の行の展開と不思議な向き合い方をする。

嘘のなかのしずかな雪渓よ
舞い落ちる沈黙よ

 「しずかな」「沈黙」。ふたつのことばには「音」がない。「ずりおちる」といっしょに音は書かれていないが、私は音を感じる。その、私の感じた音を消すように「しずかな」と「沈黙」がある。
 「雪渓」は、どう動いているのか。「しずかに」とどまっているのか。「沈黙」は舞い落ちる。まっすぐに落ちるのではなく、揺れる。ときには「舞い上がる」という逆の動きを含めながら「落ちる」かもしれない。

 「音」の印象は定まらない。その、さだまらない動きのなかから、「白」という色彩が見えてくる。「白樺」「白い肩」。「雪渓」のなかにも「白」が隠れている。
 きのう読んだ詩のなかにも「白」があった。
 「白い雨」(雨の白さ)を嵯峨は書こうとしているのだろうか。


*

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