嵯峨恵子『旗』、阿賀猥『サヤサヤ、サヤサヤ』
嵯峨恵子『旗』(ふたば工房、2019年11月01日発行) は散文詩である。あるいは「物語詩」と言ってもいいかもしれない。
「塔」という作品がある。
「しつこい」文体である。「神父は、塔は教会のものではないと言い張る。ものではないがあるからそのままにしてある。」という部分に、とくに「しつこさ」を感じる。
散文は、たぶん「事実」を積み重ねていくことで世界をつくる。そのときの「積み重ね方」が、「前」をひきずるという感じだ。だから、スピード感がない。あるいは「前」に書いたこと(過去)にひっぱられながら、それでも先へ(未来へ)進もうとする。
「原因」があって「結果」が生まれる。
たしかにそうなのだろうが、どうも、楽しくないなあ。どんなふうに展開しようと、この「原因」があって「結果」が生まれるという関係はくずれそうにないというのは、「予測可能」という印象を与えてしまうのである。どんなに予想外なことが起きても、裏切られたという感じがしない。
それがいいと思う人もいるだろうけれど。
阿賀猥『サヤサヤ、サヤサヤ』(星雲社、2019年07月01日発行)は対照的である。書いてあることの「原因」が、書かれているもののなかにはないからだ。
どういうことかというと。
動かしているのは、風ではない。「ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ」という、ことばにすると面倒くさい感情が「原因」になっているのだ。この「原因」は「物理」ではないから「ひとつの結果」にはたどりつかない。そのつど紆余曲折する。しかし、どんなに紆余曲折しようとも、
全体に「きちん」を守る。
阿賀の思想(肉体)をことばにすれば、「きちんきちんきちん」なのだ。全部、省略せずに、きちんと並べる。つまり積み重ねる。
ここにある「原因」は「こころ」が生み出したものである。たまたま「母のこころ」は「子供を食べるのは女だ」という「結論」を導き出す。そして、その「結論」とは違っていれば、それが「存在」しようがしまいが、そんなことは気にしない。「間違っている」と断定する。
ここに阿賀の、
がある。「正直」がある。「正直」を積み重ねていけば、どうしたって「他人」と違ってくる。だから、その違いが「物語」の必然となる。
嵯峨のことばは頭でつくりだした「論理の必然」である。阿賀のことばは、こころが生み出した「個人的の必然」である。共有されなくてもかまわないという開き直りがある。 「ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ」は「サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ」とさやかに揺れるものなのだ。揺れることで、こころを開放する。こころには、開放されなければならないものが「必然」として存在する。
それを掴みだす。
さっぱりするなあ。
*
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嵯峨恵子『旗』(ふたば工房、2019年11月01日発行) は散文詩である。あるいは「物語詩」と言ってもいいかもしれない。
「塔」という作品がある。
村では誰もが知っている塔だ。知っていながら、誰も党について語りた
がらない。塔の中に何があるかを知らない。塔の中に入ったことがない。
塔は教会の敷地内にあるが、神父は、塔は教会のものではないと言い張る。
ものではないがあるからそのままにしてある。村長はあれからは税が取れ
ぬ建物だと嘆く。しかし、壊すことも出来ないのでそのままにしてある。
土産物屋の女将は塔が観光にでもなれば修理したり、大事にされるのだろ
うが、何の役にも立たないのでそのままにしてあると残念がる。
「しつこい」文体である。「神父は、塔は教会のものではないと言い張る。ものではないがあるからそのままにしてある。」という部分に、とくに「しつこさ」を感じる。
散文は、たぶん「事実」を積み重ねていくことで世界をつくる。そのときの「積み重ね方」が、「前」をひきずるという感じだ。だから、スピード感がない。あるいは「前」に書いたこと(過去)にひっぱられながら、それでも先へ(未来へ)進もうとする。
「原因」があって「結果」が生まれる。
たしかにそうなのだろうが、どうも、楽しくないなあ。どんなふうに展開しようと、この「原因」があって「結果」が生まれるという関係はくずれそうにないというのは、「予測可能」という印象を与えてしまうのである。どんなに予想外なことが起きても、裏切られたという感じがしない。
それがいいと思う人もいるだろうけれど。
阿賀猥『サヤサヤ、サヤサヤ』(星雲社、2019年07月01日発行)は対照的である。書いてあることの「原因」が、書かれているもののなかにはないからだ。
どういうことかというと。
ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ……のカタマリとなって、コンフリーのようなチ
ンゲンサイのような葉の幅の広い野菜が沢山並んで、
縦にきちんきちんと並んで、角から角まできちんきちんきちんと並んで、
風が吹くと風に乗って、
サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、
ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、
誰も愛のためには、動かない。たとえ一センチでも。一ミリだって、皆一斉に
ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、
野菜たちのささやき。ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ、ねたみ、そねみ、ひがみ、
うらみ……
そのように揺れてそのようにサヤサヤとサヤサヤと。 (7ページ)
動かしているのは、風ではない。「ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ」という、ことばにすると面倒くさい感情が「原因」になっているのだ。この「原因」は「物理」ではないから「ひとつの結果」にはたどりつかない。そのつど紆余曲折する。しかし、どんなに紆余曲折しようとも、
きちんきちんきちん
全体に「きちん」を守る。
阿賀の思想(肉体)をことばにすれば、「きちんきちんきちん」なのだ。全部、省略せずに、きちんと並べる。つまり積み重ねる。
スペインの古い絵で、子供をむさぼり食う男があった。どうしてそんな絵が描かれ
たのか、わからない。だがこの絵は間違っている、と母。
--食っているのは、女。男は食うことができない。
女は糞と一緒に子を生み落として、それからたゆまず心がけて、立派なエサにし
て、それから食べようとする。自分がひりだしたものだから、自分で食える。
ここにある「原因」は「こころ」が生み出したものである。たまたま「母のこころ」は「子供を食べるのは女だ」という「結論」を導き出す。そして、その「結論」とは違っていれば、それが「存在」しようがしまいが、そんなことは気にしない。「間違っている」と断定する。
ここに阿賀の、
きちん
がある。「正直」がある。「正直」を積み重ねていけば、どうしたって「他人」と違ってくる。だから、その違いが「物語」の必然となる。
嵯峨のことばは頭でつくりだした「論理の必然」である。阿賀のことばは、こころが生み出した「個人的の必然」である。共有されなくてもかまわないという開き直りがある。 「ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ」は「サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ」とさやかに揺れるものなのだ。揺れることで、こころを開放する。こころには、開放されなければならないものが「必然」として存在する。
それを掴みだす。
さっぱりするなあ。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
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「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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