詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨恵子『旗』、阿賀猥『サヤサヤ、サヤサヤ』

2019-12-22 19:03:11 | 詩集
嵯峨恵子『旗』、阿賀猥『サヤサヤ、サヤサヤ』

 嵯峨恵子『旗』(ふたば工房、2019年11月01日発行) は散文詩である。あるいは「物語詩」と言ってもいいかもしれない。
 「塔」という作品がある。

 村では誰もが知っている塔だ。知っていながら、誰も党について語りた
がらない。塔の中に何があるかを知らない。塔の中に入ったことがない。
塔は教会の敷地内にあるが、神父は、塔は教会のものではないと言い張る。
ものではないがあるからそのままにしてある。村長はあれからは税が取れ
ぬ建物だと嘆く。しかし、壊すことも出来ないのでそのままにしてある。
土産物屋の女将は塔が観光にでもなれば修理したり、大事にされるのだろ
うが、何の役にも立たないのでそのままにしてあると残念がる。

 「しつこい」文体である。「神父は、塔は教会のものではないと言い張る。ものではないがあるからそのままにしてある。」という部分に、とくに「しつこさ」を感じる。
 散文は、たぶん「事実」を積み重ねていくことで世界をつくる。そのときの「積み重ね方」が、「前」をひきずるという感じだ。だから、スピード感がない。あるいは「前」に書いたこと(過去)にひっぱられながら、それでも先へ(未来へ)進もうとする。
 「原因」があって「結果」が生まれる。
 たしかにそうなのだろうが、どうも、楽しくないなあ。どんなふうに展開しようと、この「原因」があって「結果」が生まれるという関係はくずれそうにないというのは、「予測可能」という印象を与えてしまうのである。どんなに予想外なことが起きても、裏切られたという感じがしない。
 それがいいと思う人もいるだろうけれど。

 阿賀猥『サヤサヤ、サヤサヤ』(星雲社、2019年07月01日発行)は対照的である。書いてあることの「原因」が、書かれているもののなかにはないからだ。
 どういうことかというと。

 ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ……のカタマリとなって、コンフリーのようなチ
ンゲンサイのような葉の幅の広い野菜が沢山並んで、
 縦にきちんきちんと並んで、角から角まできちんきちんきちんと並んで、
 風が吹くと風に乗って、
 サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、
 ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、

 誰も愛のためには、動かない。たとえ一センチでも。一ミリだって、皆一斉に
 ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、
 野菜たちのささやき。ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ、ねたみ、そねみ、ひがみ、
うらみ……
 そのように揺れてそのようにサヤサヤとサヤサヤと。        (7ページ)

 動かしているのは、風ではない。「ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ」という、ことばにすると面倒くさい感情が「原因」になっているのだ。この「原因」は「物理」ではないから「ひとつの結果」にはたどりつかない。そのつど紆余曲折する。しかし、どんなに紆余曲折しようとも、

きちんきちんきちん

 全体に「きちん」を守る。
 阿賀の思想(肉体)をことばにすれば、「きちんきちんきちん」なのだ。全部、省略せずに、きちんと並べる。つまり積み重ねる。
 
 スペインの古い絵で、子供をむさぼり食う男があった。どうしてそんな絵が描かれ
たのか、わからない。だがこの絵は間違っている、と母。

 --食っているのは、女。男は食うことができない。
 女は糞と一緒に子を生み落として、それからたゆまず心がけて、立派なエサにし
て、それから食べようとする。自分がひりだしたものだから、自分で食える。

 ここにある「原因」は「こころ」が生み出したものである。たまたま「母のこころ」は「子供を食べるのは女だ」という「結論」を導き出す。そして、その「結論」とは違っていれば、それが「存在」しようがしまいが、そんなことは気にしない。「間違っている」と断定する。
 ここに阿賀の、

きちん

 がある。「正直」がある。「正直」を積み重ねていけば、どうしたって「他人」と違ってくる。だから、その違いが「物語」の必然となる。

 嵯峨のことばは頭でつくりだした「論理の必然」である。阿賀のことばは、こころが生み出した「個人的の必然」である。共有されなくてもかまわないという開き直りがある。 「ねたみ、そねみ、ひがみ、うらみ」は「サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ、サヤサヤ」とさやかに揺れるものなのだ。揺れることで、こころを開放する。こころには、開放されなければならないものが「必然」として存在する。
 それを掴みだす。
 さっぱりするなあ。





*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(54)

2019-12-22 10:28:47 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ただ白く広々としていて)

どこにも焦点がない
人それぞれ立つているところが焦点になつて

 焦点はあるのか、ないのか。
 「焦点がない」というときの「ない」と「焦点になつて」というときの「なつて」は意味が似ているが、違う。「焦点がない」から「焦点になる」。「なる」はそこにあたらしく生まれてくるということ。
 これを嵯峨は「眼覚める」と言い直す。

人それぞれが眼覚めると
時間は駱駝のようにむくむくと首をふりふり重く静かに立ちさつていく

 「時間」は「駱駝」という比喩になる。「さつていく」よりも「むくむく」「ふりふり」ということばが持っている実感の方が重い。駱駝というよりも「人」が、つまり目覚めた私(嵯峨)の姿のように見える。「焦点」になって、「焦点」として消えていく。











*

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