「それ」は存在するか。
「それ」を存在させようとする意思(ことば)がある。ことばが動き始める。
「それ」が存在するとしたら、「それ」はことばを動かす「私」のなかにある。「私」の外にあるのではない。外には「ない」からこそ、「それ」を客観化できないのだが、その「ない」はいつでも主観的には確実に「ある」。
そして、この「ない」を「ある」に変えようとする力は、あらゆる対象に対して働きかけを試みる。
このとき「主観」は「主観」のままではいられない。何らかの「客観」として動かなければ、対象に作用することはできない。
ここにいちばんの問題があるのだが。
「主観」は、すでにそこに「ある(客観)」を否定し、それを「ない」と断定した上で、それを「私のなかにあるもの」、つまり「私の外にないもの」に変えようとする。主観によって「ある」を変質させてしまう。
これは「比喩」を語るときに動くことばのあり方に似ている。
これは、「それ」というタイトルの本を読んだときに勝手に動いたことばなのだが、どうも矛盾したところがある。どこかで「論理」を間違えている。「誤読」したために、つまずいたのだろう。
それを正すためにはもういちど「それ」を読まないといけないのだが、どうにも見つからない。最初から「ない」本だったのかもしれない。
「それ」を存在させようとする意思(ことば)がある。ことばが動き始める。
「それ」が存在するとしたら、「それ」はことばを動かす「私」のなかにある。「私」の外にあるのではない。外には「ない」からこそ、「それ」を客観化できないのだが、その「ない」はいつでも主観的には確実に「ある」。
そして、この「ない」を「ある」に変えようとする力は、あらゆる対象に対して働きかけを試みる。
このとき「主観」は「主観」のままではいられない。何らかの「客観」として動かなければ、対象に作用することはできない。
ここにいちばんの問題があるのだが。
「主観」は、すでにそこに「ある(客観)」を否定し、それを「ない」と断定した上で、それを「私のなかにあるもの」、つまり「私の外にないもの」に変えようとする。主観によって「ある」を変質させてしまう。
これは「比喩」を語るときに動くことばのあり方に似ている。
これは、「それ」というタイトルの本を読んだときに勝手に動いたことばなのだが、どうも矛盾したところがある。どこかで「論理」を間違えている。「誤読」したために、つまずいたのだろう。
それを正すためにはもういちど「それ」を読まないといけないのだが、どうにも見つからない。最初から「ない」本だったのかもしれない。