詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2019年12月08日(木曜日)

2019-12-08 16:09:40 | 考える日記
 「それ」は存在するか。
 「それ」を存在させようとする意思(ことば)がある。ことばが動き始める。
 「それ」が存在するとしたら、「それ」はことばを動かす「私」のなかにある。「私」の外にあるのではない。外には「ない」からこそ、「それ」を客観化できないのだが、その「ない」はいつでも主観的には確実に「ある」。
 そして、この「ない」を「ある」に変えようとする力は、あらゆる対象に対して働きかけを試みる。
 このとき「主観」は「主観」のままではいられない。何らかの「客観」として動かなければ、対象に作用することはできない。
 ここにいちばんの問題があるのだが。
 「主観」は、すでにそこに「ある(客観)」を否定し、それを「ない」と断定した上で、それを「私のなかにあるもの」、つまり「私の外にないもの」に変えようとする。主観によって「ある」を変質させてしまう。
 これは「比喩」を語るときに動くことばのあり方に似ている。

 これは、「それ」というタイトルの本を読んだときに勝手に動いたことばなのだが、どうも矛盾したところがある。どこかで「論理」を間違えている。「誤読」したために、つまずいたのだろう。
 それを正すためにはもういちど「それ」を読まないといけないのだが、どうにも見つからない。最初から「ない」本だったのかもしれない。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(40)

2019-12-08 15:27:47 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (いつになつたらぼくの口の中が銀色の夜明けになるのだろう)

 これは、どういう感覚なのか、私にはわからない。後半に女との交渉が「今日もまだぼくの舌は海鼠のように腫れあがつている」ということばとともに書かれているから、セックスの疲れが口の中にも広がっているということか。「銀色の夜明け」は疲れがとりはらわれる感じだろうか。
 しかし、冒頭の一行は、

二日つづきの休日が晴れた日と雨の日で、
ぼくは黒白の市松模様に染まつてしまつた

 とつづいている。
 これが、わからなさに、さらに拍車をかける。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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