朝日カルチャー講座福岡受講生作品(2019年12月02日)
最終連の「ならば」ということば強い。「それじゃあ」「そうなら(ば)」と口語では言う。その「それ」「そう」を省略してしまう。その結果として「文語」になってしまうのだが、「文語」っぽくもない。
「それ」「そう」は意識的に省略したのではなく、無意識に省略してしまった。「それ「そう」が指し示すものが池田にはわかっているからである。
その直前に「同じか」という短い一行だけの連がある。この「同じか」は「問い」だが、「答え」でもある。問うことと答えること(自問自答)が一体になっている。すっかり池田の「肉体(思想)」になっている。だから余分なことばが入ってこない。そういう強さがある。
「何のために生きるのか」は「詩が何なのか」と言い直されているが、「答えを出さぬまま/生きた」「定義をせぬまま/詩をかいた」が、それこそ「答え」でありながら、池田を突き動かす「問い」であり続ける。「問い」と「答え」は「同じ」。
そう読み直すとき、最初に書いた「それじゃあ」「そうなら(ば)」は「同じならば」にかわる。「それ」「そう」というあいまいなものではなく「同じ」と認識する力、認識の力が「ならば」にこもっている。
「片道5分」とは、どこからどこまでの距離だろう。抽象的だが、「同じ」ということばと同じように、池田には「わかりきっている」ことである。「10分」にかえても同じだ。「わかっている」ことがあるいというのは、いつでも、強い。
「あなた」とはだれか。「落葉」か。いや「落葉」は「いのちの皮膚」と言い直されているから、「あなた」は「木」だろう。「わたしたち」とは、まちがいなく「人間」だ。木と向き合い、落葉をみつめ、生きるとは何かを問うている--と読んでしまうと、窮屈になる。
私がこころを動かされたのは、
この三行である。
「あなた」を「木」の別の呼称と読んだが、ここでは「落葉」というか、落ちてくる前の「葉」のようにも思える。葉はまだ木に(枝に)残っているのだが、空に束ねられている、空にあるように思える。葉は時とも言い直されている。直前の「変移」は「時の変移」(季節の変移)であり、ことばはいくつもの存在(対象)のあいだを行き来している。意味を特定せず、「あなた」は木であり、葉であり、また時(季節)でもあると読んでみる。さらにはそれは「空」でもあるだろう。「空」は「葉」たばね、「葉」はたばねられることで「空」にもなる。
そういう渾然一体とした感じ、ものが融合し、ものではなくなる。
「たばねる」が「かさねる」と言い直され、「あなた」と「わたし」が重なり、融合すれば、それはそのままセックスである。「わたし」が「あなた」をみつめるのではなく、みつめるはずの「わたし」が「あなた」の皮膚になり「わたし」をみつめる。「鏡のような」という比喩があるが、「鏡」が比喩なのか、「皮膚」が比喩なのか、「あなた」が比喩なのか,「わたし」が比喩なのか。ことばは、いくつもの「存在(対象)」をつらぬいて動いていく。「具体」を貫いて「抽象」が比喩として、瞬時にいれかわる。「いのち」とは、そういう運動の形だろう。
激しい運動なのに、透明に結晶してしまう。それが、
という一行の「光」のなかにある。「光がしみ入る」のではなく「光になって、しみ入る」。
同じように「……になって」と「なる」を補って読んでみると、世界の交錯がより美しくなる。「あなた」は「わたし」になり、「わたし」は「あなた」になる。「落葉」は「空」になり、「空」は「落葉」になる。「わたし」は「落葉」になり、「あなた」は「わたし」を「落葉」として受け入れる「空」になる。
地上に落ちるのではなく、「空」に向かって落ちる。まいあがる。「群れ」から自由になるだけではなく、この詩には具体的は書かれていないが「重力」からも自由になる。意味の重力を振り切って、軽快な想像力そのものになる。
「ひとりの葉」という比喩、比喩を生み出す力が、空に放たれているということだ。
*
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「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
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歩こう歩こう 池田清子
何のために生きるのか
問うた
答えを出さぬまま
生きたので
今
また
同じことを問う
詩が何なのか
定義をせぬまま
詩をかいた
同じか
ならば
片道5分から
始めよう
最終連の「ならば」ということば強い。「それじゃあ」「そうなら(ば)」と口語では言う。その「それ」「そう」を省略してしまう。その結果として「文語」になってしまうのだが、「文語」っぽくもない。
「それ」「そう」は意識的に省略したのではなく、無意識に省略してしまった。「それ「そう」が指し示すものが池田にはわかっているからである。
その直前に「同じか」という短い一行だけの連がある。この「同じか」は「問い」だが、「答え」でもある。問うことと答えること(自問自答)が一体になっている。すっかり池田の「肉体(思想)」になっている。だから余分なことばが入ってこない。そういう強さがある。
「何のために生きるのか」は「詩が何なのか」と言い直されているが、「答えを出さぬまま/生きた」「定義をせぬまま/詩をかいた」が、それこそ「答え」でありながら、池田を突き動かす「問い」であり続ける。「問い」と「答え」は「同じ」。
そう読み直すとき、最初に書いた「それじゃあ」「そうなら(ば)」は「同じならば」にかわる。「それ」「そう」というあいまいなものではなく「同じ」と認識する力、認識の力が「ならば」にこもっている。
「片道5分」とは、どこからどこまでの距離だろう。抽象的だが、「同じ」ということばと同じように、池田には「わかりきっている」ことである。「10分」にかえても同じだ。「わかっている」ことがあるいというのは、いつでも、強い。
落葉の空 青柳俊哉
惜しげもなく
あなたはいのちの皮膚をちらす
季節をもたないわたしたちに
変移を告げようとして
あなたの時をたばねた空に
わたしは身をかさねる
そして 鏡のようなあなたの皮膚からわたしをみつめる
きりひらかれた窓から
ひとひら ひとひら 光がしみ入るように
深紅のいのちをちらしながら
あなたの空へむかって
群れから自由な
ひとりの葉として
「あなた」とはだれか。「落葉」か。いや「落葉」は「いのちの皮膚」と言い直されているから、「あなた」は「木」だろう。「わたしたち」とは、まちがいなく「人間」だ。木と向き合い、落葉をみつめ、生きるとは何かを問うている--と読んでしまうと、窮屈になる。
私がこころを動かされたのは、
あなたの時をたばねた空に
わたしは身をかさねる
そして 鏡のようなあなたの皮膚からわたしをみつめる
この三行である。
「あなた」を「木」の別の呼称と読んだが、ここでは「落葉」というか、落ちてくる前の「葉」のようにも思える。葉はまだ木に(枝に)残っているのだが、空に束ねられている、空にあるように思える。葉は時とも言い直されている。直前の「変移」は「時の変移」(季節の変移)であり、ことばはいくつもの存在(対象)のあいだを行き来している。意味を特定せず、「あなた」は木であり、葉であり、また時(季節)でもあると読んでみる。さらにはそれは「空」でもあるだろう。「空」は「葉」たばね、「葉」はたばねられることで「空」にもなる。
そういう渾然一体とした感じ、ものが融合し、ものではなくなる。
「たばねる」が「かさねる」と言い直され、「あなた」と「わたし」が重なり、融合すれば、それはそのままセックスである。「わたし」が「あなた」をみつめるのではなく、みつめるはずの「わたし」が「あなた」の皮膚になり「わたし」をみつめる。「鏡のような」という比喩があるが、「鏡」が比喩なのか、「皮膚」が比喩なのか、「あなた」が比喩なのか,「わたし」が比喩なのか。ことばは、いくつもの「存在(対象)」をつらぬいて動いていく。「具体」を貫いて「抽象」が比喩として、瞬時にいれかわる。「いのち」とは、そういう運動の形だろう。
激しい運動なのに、透明に結晶してしまう。それが、
ひとひら ひとひら 光がしみ入るように
という一行の「光」のなかにある。「光がしみ入る」のではなく「光になって、しみ入る」。
同じように「……になって」と「なる」を補って読んでみると、世界の交錯がより美しくなる。「あなた」は「わたし」になり、「わたし」は「あなた」になる。「落葉」は「空」になり、「空」は「落葉」になる。「わたし」は「落葉」になり、「あなた」は「わたし」を「落葉」として受け入れる「空」になる。
あなたの空へむかって
群れから自由な
ひとりの葉として
地上に落ちるのではなく、「空」に向かって落ちる。まいあがる。「群れ」から自由になるだけではなく、この詩には具体的は書かれていないが「重力」からも自由になる。意味の重力を振り切って、軽快な想像力そのものになる。
「ひとりの葉」という比喩、比喩を生み出す力が、空に放たれているということだ。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2019年10月の詩の批評を一冊にまとめました。
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(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
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以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
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(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
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(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
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(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
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(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
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