詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「歩こう歩こう」、青柳俊哉「落葉の空」

2019-12-15 16:01:59 | 現代詩講座
朝日カルチャー講座福岡受講生作品(2019年12月02日)


歩こう歩こう  池田清子

何のために生きるのか
問うた
答えを出さぬまま
生きたので

また
同じことを問う

詩が何なのか
定義をせぬまま
詩をかいた

同じか

ならば
片道5分から
始めよう

 最終連の「ならば」ということば強い。「それじゃあ」「そうなら(ば)」と口語では言う。その「それ」「そう」を省略してしまう。その結果として「文語」になってしまうのだが、「文語」っぽくもない。
 「それ」「そう」は意識的に省略したのではなく、無意識に省略してしまった。「それ「そう」が指し示すものが池田にはわかっているからである。
 その直前に「同じか」という短い一行だけの連がある。この「同じか」は「問い」だが、「答え」でもある。問うことと答えること(自問自答)が一体になっている。すっかり池田の「肉体(思想)」になっている。だから余分なことばが入ってこない。そういう強さがある。
 「何のために生きるのか」は「詩が何なのか」と言い直されているが、「答えを出さぬまま/生きた」「定義をせぬまま/詩をかいた」が、それこそ「答え」でありながら、池田を突き動かす「問い」であり続ける。「問い」と「答え」は「同じ」。
 そう読み直すとき、最初に書いた「それじゃあ」「そうなら(ば)」は「同じならば」にかわる。「それ」「そう」というあいまいなものではなく「同じ」と認識する力、認識の力が「ならば」にこもっている。
 「片道5分」とは、どこからどこまでの距離だろう。抽象的だが、「同じ」ということばと同じように、池田には「わかりきっている」ことである。「10分」にかえても同じだ。「わかっている」ことがあるいというのは、いつでも、強い。

落葉の空      青柳俊哉

惜しげもなく
あなたはいのちの皮膚をちらす
季節をもたないわたしたちに
変移を告げようとして
あなたの時をたばねた空に
わたしは身をかさねる
そして 鏡のようなあなたの皮膚からわたしをみつめる
きりひらかれた窓から
ひとひら ひとひら 光がしみ入るように
深紅のいのちをちらしながら
あなたの空へむかって
群れから自由な
ひとりの葉として

 「あなた」とはだれか。「落葉」か。いや「落葉」は「いのちの皮膚」と言い直されているから、「あなた」は「木」だろう。「わたしたち」とは、まちがいなく「人間」だ。木と向き合い、落葉をみつめ、生きるとは何かを問うている--と読んでしまうと、窮屈になる。
 私がこころを動かされたのは、

あなたの時をたばねた空に
わたしは身をかさねる
そして 鏡のようなあなたの皮膚からわたしをみつめる

 この三行である。
 「あなた」を「木」の別の呼称と読んだが、ここでは「落葉」というか、落ちてくる前の「葉」のようにも思える。葉はまだ木に(枝に)残っているのだが、空に束ねられている、空にあるように思える。葉は時とも言い直されている。直前の「変移」は「時の変移」(季節の変移)であり、ことばはいくつもの存在(対象)のあいだを行き来している。意味を特定せず、「あなた」は木であり、葉であり、また時(季節)でもあると読んでみる。さらにはそれは「空」でもあるだろう。「空」は「葉」たばね、「葉」はたばねられることで「空」にもなる。
 そういう渾然一体とした感じ、ものが融合し、ものではなくなる。
 「たばねる」が「かさねる」と言い直され、「あなた」と「わたし」が重なり、融合すれば、それはそのままセックスである。「わたし」が「あなた」をみつめるのではなく、みつめるはずの「わたし」が「あなた」の皮膚になり「わたし」をみつめる。「鏡のような」という比喩があるが、「鏡」が比喩なのか、「皮膚」が比喩なのか、「あなた」が比喩なのか,「わたし」が比喩なのか。ことばは、いくつもの「存在(対象)」をつらぬいて動いていく。「具体」を貫いて「抽象」が比喩として、瞬時にいれかわる。「いのち」とは、そういう運動の形だろう。
 激しい運動なのに、透明に結晶してしまう。それが、

ひとひら ひとひら 光がしみ入るように

 という一行の「光」のなかにある。「光がしみ入る」のではなく「光になって、しみ入る」。
 同じように「……になって」と「なる」を補って読んでみると、世界の交錯がより美しくなる。「あなた」は「わたし」になり、「わたし」は「あなた」になる。「落葉」は「空」になり、「空」は「落葉」になる。「わたし」は「落葉」になり、「あなた」は「わたし」を「落葉」として受け入れる「空」になる。

あなたの空へむかって
群れから自由な
ひとりの葉として

 地上に落ちるのではなく、「空」に向かって落ちる。まいあがる。「群れ」から自由になるだけではなく、この詩には具体的は書かれていないが「重力」からも自由になる。意味の重力を振り切って、軽快な想像力そのものになる。
 「ひとりの葉」という比喩、比喩を生み出す力が、空に放たれているということだ。





*

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ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「読まれなかった小説」(★★★★★)

2019-12-15 10:49:34 | 映画
ヌリ・ビルゲ・ジェイラン監督「読まれなかった小説」(★★★★★)

監督 ヌリ・ビルゲ・ジェイラン 出演 アイドゥン・ドウ・デミルコル、ムラト・ジェムジル、ベンヌ・ユルドゥルムラー

 フー・ボー監督「象は静かに座っている」の対極にある映画である。出演者はひたすらしゃべりまくる。主役の息子、両親だけではない。脇役の友人や、書店で出会った小説家も、延々とことばを語る。それは精神なのか、感情なのか。イブン・アラビーを語るときでさえ、それは神学論なのか、哲学なのか、現実社会への憤りなのかわからない。あらゆるものに区別はなく、ただ「語る」ということだけがある。そして、こんなにしゃべりまくるにもかかわらず、彼らには「言い足りないこと」「言い残したこと」がある。その瞬間に「言えなかったこと」がある。つまり、「理解」しあわないのだ。
 映画だから、最後は「理解」に至るのだが、感動的なのは「理解」ではなく、こんなにも理解しあわずに、他人を拒否しながら、それでも「共存」しているということである。なにが彼らをつないでいるのか。逆説的な言い方になるが、「ことば」なのだ。
 「理解しない」というのは不思議なことで、「理解できる」何かがあって、そのうえで「理解しない」という決断に至る。私のことばは、そのようには動かない。私の肉体はそのようには動かない。そう判断するときの「そのように」という部分。そのとき動いている何か。「理性」と言っていいのかもしれない。「意味」をつかみとる力。いや「意味」をささえる「ことば」。「ことば」のなかに意味があるのか、「意味」の動きとしてことばがあるのか、これも区別はできないし、区別する必要のないものかもしれないけれど、何らかのことを「共有」したうえで、それを拒絶するとき「理解しない」(私は違う)という態度になる。
 「象は静かに座っている」のとき、「肉体」が先に動いて、その「肉体」をことばが追いかけるということを書いた(ように、思う)。この映画では、むしろ逆だ。「ことば」が先に動いて、それを肉体が追いかける。しかし追いつけない。肉体が残されてしまう。そしてそれは、ことばとは逆に、ひとが自然に受け入れてしまうものなのだ。
 こういうシーンがある。
 主人公が村からの帰り道、友人に会う。リンゴの木にのぼって、リンゴをとっている。友人はイスラム教徒の「聖職者」である。彼は友人をつれており、友人も「聖職者」である。そこで、神学論か社会論か哲学か何かわからないけれど議論が始まる。三人のアップもあるが、三人は村のなかを歩きながら話し続ける。そのときの三人の姿(遠景)、さらに村の姿がスクリーンに映し出される。「声」によって三人は区別できるし、「論理」によっても三人は区別できる。もちろん遠景とは言え「姿(肉体)」によっても区別はできるのだが、このときの肉体は「三人」という存在であって、それ以上ではない。「意味」の入れ物が三つある、その「入れ物」という感じである。いいかえると、このとき私は「入れ物」としての「肉体」があるということを受け入れて、それを見ている。たぶん歩いて議論している三人も、それぞれの「肉体」を「ことば」の入れ物として見ているように感じられる。「入れ物」は「入れ物」であって、「内容」ではないので、それがどんな形をしていても、それなりに存在してしまう。受け入れてしまうものなのだ。
 では、このとき「ことば」は何とつながっているのか。何を「共有」しているのか。
 イブン・アラビーが出てきたせいかもしれないが、「ことば」は「神」とつながっているのだ、と思った。それぞれひとりひとりが「神」と直接、「ことば」でつながっている。友人とつながっている、家族とつながっているのではなく「神」とつながっている。そのつながりのなか(ことば=意味)のなかに他人は入っていくことはできない。何か、イスラム教徒には、独特の「個人主義」がある。「ことば=神」の「個人的契約」のなかに他人は入ることができない。彼らが語っているのは、「私は神とこういう関係にある」ということだけなのだ。共通の話題が語られているようでも、そこには「絶対的な差異」というものがある。先に書いた「理解する/理解しない」は「あなたが神とどういうことばで契約するか、その内容は私には無関係(理解しない)だが、あなたのことばが神とつながっているということは理解する」ということになるかもしれない。
 「神」ということばがあいまいすぎるなら(あるいは、個人的すぎるなら)、「真理」と言い換えてもいいかもしれない。リンゴがある。リンゴという呼び名(ことば)がある。一個のリンゴは具象であり、それをリンゴと呼ぶことばは抽象である。そのときの具象と抽象を結び、イコールにするのが「真理」。ひとはそれぞれの「真理」を持っている。つまり、自分自身の「抽象能力」を「具象」と結びつけ、具象と抽象を行き来しながら、世界を把握している。そのときの「世界像」は無数になる。この「無数」を理解することはできない。「無数」を「一」にひきもどす「肉体」の存在を「意味を生きているもの」として受け入れるしかない。そういうことを、イスラム教徒(この映画に出てくるトルコ人)はやっているのだと思う。こういう生き方しかできないのだ。
 こんなことを書いても映画の「感想」にはならないし、「批評」にもならないとはわかっているのだが、私は、こう書くしかない。映画を見ながら考えたこと、感じたことは、いま書いたようなことなのだ。書きすぎているかもしれないし、書き足りないために、ごちゃごちゃになっているのかもしれない。
 しかし、この映画の「読まれなかった小説」というのは、なかなか味わい深いタイトルである。ひとりひとりの「ことば(人生)」は、結局「読まれなかった小説」なのである。ひとは「語る」。「ことば」を生きる。しかし、それは「神との個人契約」なので、他人に読まれ、共有されることはない。共有があるとすれば、夫婦という肉体、親子という肉体、さらには友人という肉体(ひとりひとりは、絶対的に違う)という感じを持ったまま、時間を生きているということだけなのだ。言い換えると「小説」を読んで「理解」できるのは、「肉体」を共有したことがある限られた人間だけである。その「共有」にも「誤読」が入り込むし、そうではない人間との間では、ただ「誤読」だけが存在するということにもなる。
 自己弁護をしておけば、私は「誤読」を生きる人間である。「誤読」しかしない人間である。私は生き方として「誤読」を選んだ。この映画の感想も、そういう意味では「誤読」の産物である。

(2019年12月13日、KBCシネマ1)

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(47)

2019-12-15 08:21:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あるおもいがことごとく崩れさろうとも)

やがて川の水が澄みはじめるのをじつと待つていよう
ひややかな早春の水面に帽子の影が生あるもののように映るとき

 詩を読むとき、一行一行読む。詩につづきがあっても、つづきがないかのように、一行終わるごとに、ことばの動きを確かめる。味わう。
 この詩にもつづきがあるのだが、私は、つづきがないものとして読む。そうすると書き出しの三行は、倒置法で書かれたことばのように動き始める。
 早春の川もに帽子姿の自分が映る。たぶん学生帽だろう。嵯峨はまだ学生だ。そして、川の流れのなかで「あるおもい」が崩れて流れていく。崩れるときに、それは濁る。しかし、濁りもかならず澄む。そう信じて、川の流れを見ている。
 「早春」は「青春」でもある。青春のある時間に、そういう思いで、川の流れを見たことがあるひとは多いだろう。青春は駆け抜けてゆくが、同時に青春には何かを「待つ」時間もたっぷりあるのだ。







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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