ルシアーノ・ゴンサレスの作品は「ことば」である、と書き始めてみる。
それぞれの部位を、たとえば目、鼻、口(唇)、額、頬、首ということばで指し示す。指し示されたものは固有の形を持った具体的なものである。しかしその具体的な部位は現実ではない。
ルシアーノの作品は、私が「ことば」と呼ぶものと同じように、現実の目ではない、鼻ではない、口ではないが、その形から私は私の知っている目、鼻、口を思い出し、それを結びつけている。目、鼻、口という「ことば」から、私が現実に存在する目、鼻、口を思い描くように。
ルシアーノの作品と向き合うとき、思い描く意識、結びつける意識、その「思い描く」「結びつける」という意識のあり方(動き)そのものが問われていることになる。なぜなら、ルシアーノの作品は「具象」的ではあるが、彼の作品と同じ顔(頭)をした人間はいない。「具象」的に見えるが、「抽象」なのだ。「ことば」と同じように、意識を具象に向けて動かす「何か」なのだ。
「抽象」の力、精神の力、「もの」のなかから「意識」を分節し、さらに統合するという力(エネルギー)と、運動の可能性が問われている。
目に戻って見る。
ルシアーノの作品には、目がひとつしかない。しかし、目がひとつしかなくても目である。いまは開かれているが、閉じられても目である。何をみつめようが、あるいはみつめることを拒否しようが目である。
この「目である」ということが「抽象」の極点である。精神が「目性(目らしさ)」を把握し、「目」と名づける。そして、「目」がその瞬間に、分節され、「目」になる。
私が、いま「ことば」でしたことを、ルシアーノは彫刻でおこなっている。
さて、ここからがほんとうに考えなければならないことである。
私が「目性(目らしさ)」と考えているものは何なのか。私は、それを「ことば」で完全に定義できない。その定義できないものは何なのか、それを知りたいと思うし、それを「知れ」と意識を揺さぶってくるのが、ルシアーノの作品なのだ。
それだけではない。なぜ私たちはそこにあるものを、目と呼ばなければならないのか。目と呼ぶことで、何をしようとしているのか。それを「知れ」と、厳しく詰問してくる。