詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2019年12月12日(木曜日)

2019-12-12 10:09:20 | 考える日記


 ルシアーノ・ゴンサレスの作品は「ことば」である、と書き始めてみる。
 それぞれの部位を、たとえば目、鼻、口(唇)、額、頬、首ということばで指し示す。指し示されたものは固有の形を持った具体的なものである。しかしその具体的な部位は現実ではない。
 ルシアーノの作品は、私が「ことば」と呼ぶものと同じように、現実の目ではない、鼻ではない、口ではないが、その形から私は私の知っている目、鼻、口を思い出し、それを結びつけている。目、鼻、口という「ことば」から、私が現実に存在する目、鼻、口を思い描くように。
 ルシアーノの作品と向き合うとき、思い描く意識、結びつける意識、その「思い描く」「結びつける」という意識のあり方(動き)そのものが問われていることになる。なぜなら、ルシアーノの作品は「具象」的ではあるが、彼の作品と同じ顔(頭)をした人間はいない。「具象」的に見えるが、「抽象」なのだ。「ことば」と同じように、意識を具象に向けて動かす「何か」なのだ。
 「抽象」の力、精神の力、「もの」のなかから「意識」を分節し、さらに統合するという力(エネルギー)と、運動の可能性が問われている。

 目に戻って見る。
 ルシアーノの作品には、目がひとつしかない。しかし、目がひとつしかなくても目である。いまは開かれているが、閉じられても目である。何をみつめようが、あるいはみつめることを拒否しようが目である。
 この「目である」ということが「抽象」の極点である。精神が「目性(目らしさ)」を把握し、「目」と名づける。そして、「目」がその瞬間に、分節され、「目」になる。
 私が、いま「ことば」でしたことを、ルシアーノは彫刻でおこなっている。

 さて、ここからがほんとうに考えなければならないことである。
 私が「目性(目らしさ)」と考えているものは何なのか。私は、それを「ことば」で完全に定義できない。その定義できないものは何なのか、それを知りたいと思うし、それを「知れ」と意識を揺さぶってくるのが、ルシアーノの作品なのだ。
 それだけではない。なぜ私たちはそこにあるものを、目と呼ばなければならないのか。目と呼ぶことで、何をしようとしているのか。それを「知れ」と、厳しく詰問してくる。


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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(44)

2019-12-12 08:31:54 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (われは海に住む青銀の飛び魚)

きみは空に咲く一抹の雲の花

 「ぼく」と「あのひと」から、「われ」と「きみ」へと呼称が変わっている。この詩は、こうつづく。

あこがれて飛びはすれど
落ちてはかなしもとの寂しら

 描かれるのは「われ」のことだけである。「きみ」はどうなったか書かれない。そして、「われ」の描写には、意味がわからないわけではないけれど、いつもとは違うことば(ふるめかしいことば)がつかわれる。
 「かなしも」「寂しら」
 直接的な「響き」がない、と感じるのは私だけだろうか。










*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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