フー・ボー監督「象は静かに座っている」(★★★★★)
監督 フー・ボー 出演 チャン・ユー、パン・ユーチャン、ワン・ユーウェン、リー・ツォンシー
窓がある。あるいはドアがある。出口がある。そして、そこに人物がいる、という映像(シーン)が非常に多い。しかし、外も内部も、人物も「全体」が見えない。人物のアップの背後(脇、そば、周辺)が、どこかにつながっているけれど、「全体」が見えないので、どこにつながっているかわからない。逆に「外部」があることが、「内部」が閉ざされているという印象を強くする。
「外部」はすべてのひとによって共有されるものであるのに対し、「内部」というのは人物に関して言えば「ひとり」ひとりのものであって他人とは共有できないものである。
しかし、映画を見ているうちに、それが逆のことのように感じられてくる。
「ひとり」ひとり違うはずの「内部」がどうしようもなくつながってくる。閉ざされたまま「共有」されてくる。だれも他人の「内部」など知らないはずなのに、それぞれが相手の「内部」を知っている感じがしてくる。主役の四人の「内部」だけではなく、その周辺の人物の「内部」も「違う」はずなのに、共通のものがどんどん増えてくる。
逆に、「外部」はだれに対しても開かれているのに、それは「遠い」。たしかに存在するのに、それを「共有」したいのに、たどりつけない。
こういう「抽象」的なことを、この映画はあくまでも「具体」として描き続ける。「抽象」にならずに、「具体」そのままでつたわってくる。「具体」のままで表現されている。そう感じるのはなぜだろうか。
演出といえばいいのか、カメラアングルといえばいいのか、それに特徴がある。役者は「全身」で演技している。しかし、カメラは常に(と言っていいと思う)、「肉体」の「部分」しか映さない。「全身」で演技をさせておいて、「部分」しか見せないという、とても贅沢な撮り方(表現の仕方)をしている。スクリーンに映しだされることのない隠されたものを、観客は常に自分の「肉体」で補いながら映画のなかに引き込まれていく。自分の「肉体」で補った分は、常に自分の「過去」である。自分が体験し、「肉体」が「おぼえている」ことである。そういう「肉体」がおぼえていることは、たいていはいちいちことばにしない。自転車の乗り方、泳ぎ方をことばで説明できないけれど、そこに自転車があり、そこにプールがあれば、転ばずに自転車を漕ぎ、おぼれずに泳ぐのににている。無意識のうちに「過去」を復元し、「ああ、これは知っている」「こういうことは体験したことがある」という感じを、自分の「内部」に積み重ね続ける。
この強烈な「説得力」を支えるのは、色彩計画である。舞台は地方都市。季節は冬。(晩秋かもしれないが。)雨が降っている。あるいは雨が降りそうな気配がある。光が鮮明ではない。ものの「輪郭」が明確ではない。色も「輪郭」が明確ではない。あいまいさに統一されている。この「輪郭」のなさが、別々のものである人間の「内部」を外にはみ出させ、また「外部(他人)」を内に引き込む。そういうことを「自在に」というのではないが、しつこく揺さぶる。
「音楽」も、それによくにている。断片的である。明確な「輪郭」、つまりすぐにおぼえられるような「旋律」を持っていない。不安定に、何かがきらめき、何かが沈黙のなかへおちていく。
「セリフ」も巧みだ。ストーリー(人間で言えば、全身)はことばとして語られない。逆に、ストーリーを要約して語ろうとすれば、その瞬間に抜け落ちていくような「日常会話」、あるいは会話というよりは言いたいことを封印したままのの「言い差しの断片」ばかりである。親子がけんかするときも、ことばで怒りを爆発させてしまうわけではない。「どうせ、わかってもらえない」という怒りを「肉体」に封印して、「言われなかったことば」を浮かび上がらせる。この「セリフ」の「構造」がスクリーンに展開される人物の映像、全身は映し出さずに、アップだけをぶつけてくる構造と非常に緊密につながっている。
映画でしかできないことを、映画でやっている。映画でしかないから、映画を超えてしまっている。その強さに圧倒される。
映画のラストも非常にすばらしい。主役の四人のうちの三人は、「座っているだけの象」を見るために(同じものを見る、外部を共有するために)満州里を目指す。(三人だが、脇役のこどもが加わり、四人という構造はかわらない)。その、どうでもいいような「バスの内部」と、窓から見える夜の風景が映し出される。途中だけが展開される。満州里へ向かっているかどうかは、風景だけではわからない。特徴的な風景(日本で言えば東京から京都へ行くとき、富士山が見える)というものがない。その延々とつづくバスの旅。途中で、トイレ休憩があり、息抜きがある。からだをほぐすために、ヘッドライトの光ので「羽根蹴り」をする。何にもならないゲーム。でも、そこにはただ「時間の共有」がある。
あ、これなのだ。
ひとは、時間を共有する。他人の「過去」は共有できない。共有した気持ちになる、共感する、ということはできるが、それは「共有」とは言えない。けれども、何にもならないことをするとき、ゲームをするとき、ひとはたしかに時間を共有する。そういう時間の共有の仕方がある。三人(四人)が旅をしているのも、その無駄な時間の共有かもしれない。これが、しかし、人間をつないでいるのだ。
主役の四人は、誰かと時間を共有したいと思っている。でも、共有できない。「過去」を「共有」できない。だから「いま」を「共有」できるはずがないし、「いま」を「共有」できないとしたら「未来」はさらに「共有」できない。だから、絶望する。
でも、どこかに「時間を共有する瞬間(共有できる瞬間)」がある。そのことを告げて、この映画はぱっと終わる。このシーンだけ、はるかな「遠景」であり、鮮明な「輪郭」と光、登場人物の全身が、とても小さく輝く。「羽根蹴り」の「羽根」さえも。蹴り損ねる足の動きさえも。
傑作。
文句なしの、2019年のベスト1。
「ジョーカー」を見たとき、ここ数年のベスト作と思ったが、これはここ十年のベスト。「長江哀歌」を見たとき以来の感動である。
(2019年12月11日、KBCシネマ2)