詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉本徹『天体あるいは鐘坂』

2019-12-14 22:14:06 | 詩集
天体あるいは鐘坂
杉本 徹
思潮社


杉本徹『天体あるいは鐘坂』(思潮社、2019年09月30日発行)

 杉本徹『天体あるいは鐘坂』。
 繊細ということばがある。感想を書くとき、このことばがあると、とても便利である。「繊細な感覚の、一見弱いような、けれど硬質なものを含んだことばの運動」というようにつづけ、「新しい抒情」と名づければ、なんとなく「感想」になってしまう。

それはなんて遠い未来--きっと幾度も
夜が明けるだろうそして深い昼は閉じられるだろう
きっと歩き疲れて行き着く新緑の、葉叢ごしに              (裏窓)

 たとえば、この三行の(あえて、前後を省略しているのだけれど)リズムが引き起こすうねるような流れを破壊するように、「夜明け」を「昼を閉じる」と言い直す論理のなかに、杉本独自の鋭敏な感覚がある。それはさらに「歩き疲れる」というリズムを「新緑」ということばで破壊し、そのあとで「葉叢」で統合する形で展開される。そこに「新しさ」がある。
 でも、私がいま書いたようなことを書きつらねていくのは、一種のでっち上げで、実は何も語っていない。単にそれらしいことばをつなげているだけだ。読まなくても書ける「感想」である。
 そういうことを私はしたくない。私がしたいのは「誤読」である。だから、「裏窓」については、こんなふうに書くのだ。。

港区と隣接する某区との、境に、川と階段があり、ある日そこを直線に走り抜
けていった驟雨ののち、光を呼ぶ器のひとつも身を、ひそめる。「ソラ、ソラ
ノ、ウツロ」……青白い、雨の珠、ひそかな、クラクションの陽炎。等間隔に
風が影をはこぶ、そのさまをながく橋の上からみた。月と太陽の対話を窓にう
るませ、三階は空室、やがて二階だけ、落日。

 この冒頭で、私はまず「港区」につまずく。「某区」が「港区」を固有名詞ではなく、「港のある区」という具象と抽象のいりまじったものにしてしまう。交錯は、「境」ということばによっていっそう鮮明になる。そこにあるのは「固有名詞」ではなく、何かを何かとわけるもの、「境」だけである。わけるもののひとつに「川」があり、またそのひとつに「階段」がある。「階段」が具体的にどういうものか、とてもわかりにくいが、そのわかりにくさ(説明しないこと)が「階段」をさらに抽象的にする。比喩にしてしまう。  この「状況設定」だけで、杉本が書こうとしているのは、「港区」を「港のある区」と呼ぶような「名づけ」の行為のなかにあるものだとわかる。「港のある区」を「港区」と呼ぶという「名づけ」でもいいのだが、どちらにしろ、そこには「具象/現実/実物」と「抽象(精神)」の衝突がある。
 こういう「状況設定」のなかで「ある日そこを」ということばが選ばれるのは必然である。「ある日」というような「抽象的日付け」は現実にはない。「そこ」という「指示」を示すだけの現実もない。「ある」にしろ「そこ」にしろ、そのことばが抱え持っているのは「指し示す」という抽象的な精神の動きと、その抽象を具体化しようとする感覚の動きである。それが、

                             直線に走り抜
けていった驟雨ののち、光を呼ぶ器のひとつも身を、ひそめる。

 という、奇妙に屈折した「文」になる。
 驟雨が走り抜ける。そうすると光がさす。あらゆるものが雨によって洗われ、輝く。まるで光の入れ物(器)のように。だが、それは輝くと同時に、

身を、ひそめる

 この「身を、ひそめる」ということばに、私は、完全につまずく。とくに読点「、」に。なぜ「身をひそめる」ではなく「身を、ひそめる」なのか。
 ことばがすぐには出てこなかったのだろう。
 「港区」に始まる「具象」と「抽象」の拮抗が「光を呼ぶ器」ということばに結晶し、それを「身」と言い直した瞬間に、杉本の「肉体」そのものが動いたのだ。ことばの前に、「肉体」が動いた。その痕跡がここにある。
 この読点「、」は、たとえて言えば森繁久弥の芝居の呼吸のようなものである。ことばの前に、まず「肉体」が動く。「肉体」がことばになる前の、ことばにならない感情で「肉体」を動かす。それを追いかけて、ことば(セリフ)がやってくる。こういう演技は、とても説得力がある。芝居だからことばはきまっているはず(森繁久弥は言うべきことを知っているはず)なのに、いま、はじめてことばを発しなければならないという状況に出会っているという生々しさを感じさせる。
 それと同じものが、「身を、ひそめる」の読点「、」にある。
 なんだろう。なぜ、杉本の「肉体」は「ひそめる」を選ぶ前に、一瞬、呼吸を止めたのだろう。なぜ、自分を隠そうとしたのか。それは、ここだけでは、わからない。
 「ひそめる」は「ひそかな」ということばのなかに変化してゆく。「等間隔」という非常に客観的なことば、しかし、それが指し示すのは「風がはこぶ影」という奇妙なものだ。影を見ているか、風を見ているのか、はこぶという動きを見ているか。判然としない。だからそれは「そのさま」と言い直され、さらに「ながく」と「時間」とともに言い直される。「身を、ひそめ」「ながく」「みた」。やっと出てきた「肉体」のことば。「みた」。「身を、ひそめ、みた」。この変化のなかにある「肉体」そのものの動きが、詩だ。
 しかし、何を見たのか。
 「落日」を、見た。太陽は、空室の三階の窓には射さず、二階の窓にだけ輝く。三階、二階ということばのなかに、最初に書かれていた「階段」がよみがえってくる。そのよみがえり方は、杉本が、その三階の部屋が空室であることを知っていることを教えてくれる。空室は、だれもいないために空室なのか、それとも杉本がいないという意味で空室なのか、それは読者の想像に任される。
 この、「罠」のなかに、詩がある、とも私は感じる。「罠」は読者にとっての読点「、」である。そこへ飛び込むか、立ち止まるか、引き返すか、跨ぎ越すか。途中に隠れている「うるませる」という動詞も、いろいろなことを感じさせる。「肉体」が何をおぼえているかと問いかけてくる。
 書きながら隠す何ごとかがあり、隠しながら書いてしまう何ごとかがある。それにつまずきながら、杉本の「肉体(過去/思想/体験)」を読むのではなく、私自身の知っている「港」や「川」や「窓」(部屋)を読み返す。私の「肉体」のなかにある「具体」へと動いていくもの、杉本の書いているはずの「具体」と私の知っている「具体」をつないでいく「抽象」というものに巻き込まれ、何度もつまずく。私の「肉体」のなかにひとつの情景と、私の記憶が交錯する。それは杉本の書いていることばによって生まれてきたものだが、杉本が書いていることと一致するかどうかはわからない。わからないから、私は私の読んだままに、自分のおぼえていることをことばに置き換える。つまり「誤読」する。
 こういうことは、どうでもいいことだから、とても楽しい。

 いま書いてきたことは、何か意味を持っているか。持っていない。つまり「批評」になっていないし、「感想」とも呼べないものだろう。だが、私は杉本の詩を読みながら、そう考えたのだ。そう考えさせるのものが、杉本のことばのなかにある、ということだろう。
 「裏窓」はとても長い詩だが、私は、冒頭の五行だけで詩として完結していると思う。書きたいことがあるから書いたのだと思うけれど、後半はことばの「強さ」が稀薄になっていると感じた。

どこだろう、裏窓のような滞留の、約束の、場所は、

 この最終行は、「抽象」になりすぎていて、私の「肉体」は、それを追いかけたいとは思わなくなってしまう。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(46)

2019-12-14 08:24:47 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ぼくをゆるしてくれ)

流れる水はぼくを涯のない悲哀へおしながす
水よ どうしてその手でなにもかもゆするのか

 私は、この部分を「誤読」する。私は、こう読んでしまった。

水よ どうしてその手でなにもかもゆるすのか

 「ゆする(揺する)」ではなく「ゆるす(許す)」。悲哀へおしながすこと、それが「許す」。悲しむことで「許される」ことがある、と。
 ひとは、ときには悲しむことが必要なのだ、と。









*

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