詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

2019年12月05日(木曜日)

2019-12-05 23:42:14 | 考える日記
 抽象的なことがらだけではなく、たとえば「水」について書かれたものを読むときにだけ「水」というものがわかる。そして、その「わかった」ことを自分のことばで言おうとすると、あいまいになる。つまり「わかっていない」ということが、わかる。
 ことばは、この「わかる」と「わかっていない」をつなぐ。
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一方井亜稀『青色とホープ』

2019-12-05 10:12:44 | 詩集
一方井亜稀『青色とホープ』(七月堂、2019年11月01日発行)

 一方井亜稀『青色とホープ』には、書き出しが「外国小説(翻訳小説)」のような作品がある。「遠景」も、そのひとつ。

すれ違う電車に人の影は認められず
吹き溜まりの埃は揺れている
がらんどうの車内は
夜の口にすっぽりと収まり
遥か向こうにコンビニの灯りが見える
失う前に与えられていないということがなぜ
喪失の文字を伴って目の前を遠く押しやるのか

 「人影は認められず」。ふつうにつかうことばかもしれない。しかし、わたしはそこにつまずく。「認められず」は「肉体」のことばではなく、精神(知性)のことばである。「肉体のことば」では「見えない」という。
 一方井は、つまり、一気に「知性」の世界へ入っていく。このスピードが、私には「翻訳小説」の文体に近いように思える。「目の前」(七行目に出てくることば)にある現実を描くにしても、「存在」として描くのではなく、あくまで「認識対象」として描く。
 「見える」が登場するのは五行目だが、この「見える」も「肉体」のことばであるようで、「肉体」のことばではない。「遥か向こう」に見えるものを「コンビニの灯り」と認定する(認識する)のは、一方井がすでにその存在を知っているからだ。「見えた」(見える)のではなく、一方井は存在を確認しているのだ。
 この「認識/確認」の運動が、

失う前に与えられていないということがなぜ
喪失の文字を伴って目の前を遠く押しやるのか

 と、「認識(意識)」そのものを問うようなことばを運動をうながす。
 「与えられていない」のなら「喪失」ということはありえないのだが、「事実の時系列」と「認識の時系列」は違う。
 「遥か向こう」はほんとうに「遥か向こう」とは限らない。すぐ近くにあっても「遥か向こう」と感じるときがある。認識するときがある。それはコンビニの存在が距離を生み出しているのではなく、認識そのものが距離を生み出すということであり、それはもっと正確に言い直すと認識が存在を遠ざけるのである。認識が先にあり、それにあわせて「事実」を定義しなおす(描写しなおす)。そこに「喪失」という「概念」が生まれる。いや、違うな。まず「喪失」という概念(認識)があり、その影響で現実の風景が変形し始める。近くにあるのに「遥か向こう」にしてしまう。
 こういうことは、一種の「錯誤」である。あるいは「混乱」である。「知性」にとって「錯誤/混乱」というものは好ましいものではない。だから、それをととのえなおすために「論理」が必要になる。その「論理」が、「失う前に与えられていない」という矛盾を含んだことばなのである。「ない」の発見、ギリシャ哲学が発見した「ない」が「ある」ことをめぐる論理が、ここでも動いていることになる。
 言い直すと、一方井は「喪失」感をを認識論を媒介にすることで「新しい詩(一方井だけの詩)」にしようとしている。
 「認識」と「現実」の「ずれ」のなかで、「認識(知性)」に基点をおいてとこばをととのえようとするのは、

滑り込むホームを前に
やがて辿るであろう路は窓外に開けており

 というような、もってまわった言い回しに見ることができる。「やがて辿るであろう」と書いているが、その「やがて」というのは単に電車を降りたらの意味でしかない。そういうことは「肉体」はいちいちことばにしないで、習慣としてやってしまう。それなのにわざと「やがて」という「時間的距離」を挿入する。「遥か向こう」と「やがて」は同じ働きをしている。
 一方井が「認識(知性/論理)」にことばの運動の基点を置いていることは、

幾度も通りすぎた
その根拠となる過去を手繰り寄せる度ありきたりな
取り繕う隙もない幸福を前に
身体はシートに埋まるばかりで
窓外は遠い

 この部分の「根拠」ということばにも象徴的にあらわれている。
 「肉体」は「幾度も通りすぎた」路(コンビニのある路)を「過去」として「手繰り寄せる」こともなく、いま、そのものとして動いていける。わざわざ、肉体でおぼえている路をことばにし、ことばにすることで「窓外」の「現実」と「車内」にいる「私の認識」の間に「遠い」距離があるとは思いはしない。

 と、書くと。

 まるで一方井のことばを批判しているだけのように思えるかもしれないけれど、こういうことばの運動が一方井の詩であると私が思ったというだけのことである。
 この、一種「生硬」な文体をどこまでつらぬいてゆくか。
 私には、書き出しと終わりを比較すると、そのことばの運動がだんだん硬度を失っていくように思える。批判するならば、その点である。

コンビニの灯りは僅かなカーブとともに一棟のマンションに隠れ
だがやがて
この身はその内に差し出すのだから
傘は置いたまま
ここをあとにする
新しいビニール傘を受け取るために雨雲は更新されるだなんて
嘘のように
手続きはいつでも簡略化された
それが望みであるように
電車はホームに滑り込んでゆく

 電車に傘を忘れてしまう。コンビニについたころ、また雨が降りだして、傘を買う羽目に陥る。そういうことがまた繰り返される。それを、「客観(知性/認識)」を装って、こんなふうに言い直している。
 ここがつまらないのは、この部分には、

失う前に与えられていないということがなぜ
喪失の文字を伴って目の前を遠く押しやるのか

 というような、「矛盾した論理」がないからだ。
 「矛盾」とは、他人にとっては理解できないものだが、本人にとっては「必然」である。
 最後の部分では、それが消えてしまっている。誰だって、電車のなかで傘を忘れ、コンビニにはいっているうちにふたたび雨に降られ、その瞬間、「あ、傘を忘れた」と思い出し、仕方がないなあと新しい傘を買う。
 こんなことを、一方井だけが経験したことでもあるかのように、面倒くさい「認識言語」を交えて書く。

*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(37)

2019-12-05 00:00:00 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (あなたの手紙の余白は)

 ふたたび「あなた」にもどって、詩はつづく。

夕顔の花のような匂いがする

 この一行は不思議である。「夕顔の花のような」は「匂い」を修飾している。そして「夕顔の花のような」というのは、そのまま「比喩」でもある。
 だが。
 それは「余白」の「比喩」なのか。
 「余白」の「比喩」は「匂い」ではないのか。
 ことばが動いている。「意味」の「固定化」を拒否している。そして、こんなふうに展開する。

昨日も 今日も
晴れた日も 雨の日も




*

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