詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たなかあきみつ『静かなるもののざわめき P・S』

2019-12-01 22:32:54 | 詩集
たなかあきみつ『静かなるもののざわめき P・S』(七月堂、2019年11月20日発行)

 たなかあきみつ『静かなるもののざわめき P・S』を読む。わからない。何がわからないかというと「意味」がわからない。しかし「意味」というものは、ひとりひとりにとって違うから、「意味がわかる」ということなど、実際にはありえない。どこかで完全に違っている。そう考えてしまうと、「読む」こと、つまり感想を書くことは、むずかしくはない。
 「意味がわからない」というのは「たなかの書いている意味」と「私の読んでいる意味」にはつながりがない。重なり合うもの、共有できるものがない、ということであり、それは逆に言えば、これから書くことは「たなかの意味」ではなく、あくまでも「私(谷内)の意味」にすぎない。
 私が書いているのは、いつでもそういうことだから、とくに変わったことを書くわけではないが、ちょっと「前置き」を書いてみた。こういうものを書かないと、ことばが動かない。そういう「抵抗感」のある詩(ことば)なのである。

 「前置き」が「前置き」になるかどうか、わからないが。

 「P・S(a)goggleといえば文字の歯間ブラシのように」という作品がある。「google」かと思ったが、違っている。最初は「google」と思って読み始めたのだが、二行目で、あ、違っている。「google」ではない、と気づいた。
 気づくのはそういうことだけではない。私はいつでも自分勝手に「世界」を見ている。自分が見慣れたものに置き換えて見ている。「goggle」とたなかが書いているのに「google」と、自分の知っていることばに置き換えて読んでいる。そのことに気づく。
 今回は、たまたま気づいたが、たいていの場合は気づかない。だから、これから書くことには、多くの「気づかない誤読」がある。私が「転写」することばは、たなかのことばを正確にコピー&ペーストしていない。間違えて転写しても、私は、気づかないまま、ことばのなかに入っていくことになる。

視界不良のあらゆる曇天を度外視した
goggleの原綴には二本の立棺
あのボスポラス海峡の両岸を跨ぐ膝蓋骨
&頭蓋骨、極細の鳥の骨よ

 私が「理解できる」のは「度外視した(する)」と「跨ぐ」という動詞だけである。「度外視する」は、私の場合「無視する」というのに近い。これは「肉体の運動」というよりは「精神(知性?)」の運動である。「違い」があっても「違い」を無視する、「違い」を「度外視して」考える。「あのボスポラス海峡の両岸を跨ぐ」は「両岸に足を置く」ということだと思う。「海峡の両岸を跨ぐ」とたなかは書くが、私は「海峡を跨いで、両岸に足を置く」という「意味」に理解する。「海峡」と「両岸」という「違い」を「度外視して」、「跨ぐ」という私の知っている動詞をつかって、たなかの書いていることをつかみなおすのである。
 「goggle」と「google」は違う。違うけれど、私はその違いを「度外視して(無視して)」こう考える。「goggle」と「google」は「ボスポラス海峡の両岸」のようなものである。左岸と右岸は違う。海峡だから、左岸、右岸とは言わず、西岸、東岸かもしれないし、北岸、南岸かもしれないが、そういう「違い」を「度外視」すれば「両岸」である。「跨ぐ」という動詞は、跨いだ瞬間「左岸」「右岸」を気にしない。左足、右足も気にしない。「跨いでいる」だけを重視する。違いがある。そして、その違いの間には、違いを生み出す何かがある。海峡だったり、左右という意識だったりする。海峡は「実在」するが左右は「知性」が生み出した便宜上の区別である。前向き、後ろ向きと体の位置を変えるだけで左右は逆になるから、左右なんてほんとうは存在しない。左右はいつでも度外視できる。だが、状況によっては絶対に度外視できないということもある。私たちは、たぶん、そのつどの都合で「知性(認識)」を変化させながら、「世界」に向き合っている。しかし、そのときも、この詩で言えば「跨ぐ」という動詞だけは「度外視(無視)」できない。確実な「運動」である。この「確実」だけを私は信じる。それは、とても少ないが、つまり、先に引用した4行ではたったひとことだが、これを手がかりに、私はたなかは「似ている(あるいは同じもの)」を繋いでいくことばの運動と、それを「繋ぐ」ではなく「跨ぐ」という感覚で移動していくことを詩の運動だと考えていると読み始める。
 このとき「視界不良」はある意味で絶対条件である。明瞭に見えすぎていては、こわくて「跨ぐ」ことができないことがある。「海峡」に似た例を借りて言えば、幅1メートル50センチの「亀裂」がある。亀裂の底が「視界不良」で、深さが30センチだと思う。このときひとは簡単に亀裂を「跨ぐ」ことができる。しかし、それが 100メートルの深さだとわかる(見える)と「跨ぐ」ことはむずかしくなる。「視界不良」であることが、ひとの行動を楽にする。あらゆる「認識」も「不明瞭」の方がいいときがある。「goggle」と「google」は違う。でも、どっちが正しい? これは、わからない方が簡単。どっちも似たようなもの。そうやって、「跨ぐ」。「認識の裂け目」を私は気にしない。
 どこまでこの「気にしない」運動を続けることができるか。その結果、どこにたどりつくことができるか。そういうことをたなかは書いているのだと思う。違いを跨ぎ続け、違いをなかったものにする。その想像力の暴力、想像力の暴走を、どれだけことばの洪水(過剰)で押し進めるか。そう思って読む。
 二連目を省略して、三連目。

あるいはうかつにも水中のカモノハシの水掻きの動線のように
すっくと二本脚で歩哨に立つプレリードッグのように
あるいは東京のもろダークイエロウに暮れなずむ
工事現場の《安全+第一》という楷書体の表示盤を
口腔内の風船もどきのキシリトールガムとてちぎれた舌平目

 ことばがことばを跨いで、そのあいだにある違いを跨いで、どこまでも暴走する。
 この連で私が注目するのは、繰り返される「あるいは」と「のように」。「あるいは」は言い直し、「のように」は比喩。どちらも「元」というか「対象」がある。これを「もの(実在)」ではなく「知性(知による認識、知がつかみ取った何ものか)」と仮定してみる。それはまだ「実在」になっていない。それを「言い直し」「比喩」で「感覚」にもわかるものにしようとする運動がある。そして、そのとき大事なのは「感覚的にわかるもの」になるかどうかではなく、「わかるものにしようとすることばの運動」が「ある」ということ。「知的認識」から「感覚的実在」への「跨ぎ行動」があると言い直せば、そこには「跨ぐ」という運動があるだけということになる。
 それでいいのか。「意味」はなくて、いいのか。
 たぶん、そういうことが「評価」の分かれ目になるのだと思うが、私はもともと「意味」というのは個人のものであって、ひとそれぞれが違う「意味」を生きているのだから、「意味」なんてなくていい。つまり、わからなくていい、と考える。
 「意味」がわからなくても、「跨ぐ」という「運動」がわかればそれでいい。「運動」が「わかる」というのは、とても感動的なことなのである。私に言わせれば。
 たとえて言えば。
  100メートル競走がある。9秒80で走る。マラソンを2時間2分で走る。そういうことの「意味」はわからなくても、その「走り」(肉体の動き)を見れば、すごいと感動する。この感動が「わかる」。ことばの動きを見るときも、私は、それを感じるのだ。「ことばの肉体」の動きが、「私のことばの肉体」の動きをはるかに超えている。「私のことばの肉体」では不可能な「跨ぎ」(ときには、跳ぶ、さらには飛ぶ)がある。スピードがある。距離がある。それを感じれば、それでいい。
 これを抽象的なことばで言い直せば、ことばとことばの切断と接続。その距離とスピード。軽さ、明るさ。リズムの正確さ。そういうものを感じるとき、私は「意味」など気にしない。「ことばの肉体」の運動能力に、ただみとれる。
 たなかの詩を読み、感じるのは、そういうことだ。
 「意味」を、そして「意味」がもっている「思想」に対する共感をたなかは求めるかもしれないが、私は、それに対しては「わからない」というしかない。私がわかるのは、ことばからことばへの切断と接続、その飛躍とスピードが、読んでいて「快感(酔い)」をもたらすものであるとき、それを「好き」というだけである。
 好きな部分もあれば、嫌いな部分もある。日によって、嫌いな部分をここは大嫌いと延々と書くこともあるし、好きな部分を繰り返し繰り返し取り上げるときもある。そういう違いがあるだけだ。きょうは好きな部分を引用して、好き放題に書いてみた。






*

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(33)

2019-12-01 11:53:48 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
田舎の雨

* (雨が降りしきつている)

そのはしばしに白い数字を連らねながら
雨は単一の思想を現わしている

 白い雨、ならば秋の雨だろうか。
 「白い数字」は「思想」の比喩と思って読む。その思想の特徴は「単一」であるということか。「数字」は0から無限まであるが、それを貫いているのは「単一」の思考である。1+1が無限につづいていく。
 だが、この詩は、そういう読み方を裏切って、次のように閉じられる。

--雨は昨日の感情のうえに降りつづける

 なぜ「きょう」ではなく「昨日」なのか。なぜ「知性(理性)」ではなく「感情」なのか。
 考えてみなければならないのは、「昨日の感情」というのは、「いつ」存在しているかということだ。「昨日の感情」をきょう思い出すとき、それは「きょうの感情」ではないのだろうか。きょう思い出しているにもかかわらず、それを「昨日の感情」と呼ぶとき、そこには「理性」が働いている。「数字」のようなものが働いている。
 さて。
 では「理性」と「感情」と、どちらが世界を存在させているのか。
 嵯峨の抒情詩は、感情を理性でととのえる形で動くものが多い。理性が真理であるけれど、真理は「感覚」としてはとらえにくい。「理性」が論理の力でつかまえるものである。そうやってつかまえた論理を、具体的なものの中に還していくとき、その感覚世界が感情と言う形、抒情になるのかもしれない。




*

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