詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

estoy loco por espana (番外33)

2019-12-11 15:18:19 | estoy loco por espana


Luciano Gonzalezの作品

Tengo algo que quiero escribir sobre este trabajo.
Pero aún no puedo hablarlo.
Tal deseo y ansiedad se mueven en mí cuando veo este trabajo.
El arte me hace querer. El arte me pone ansioso.
Pero todavía no sé cuál es mi deseo.
Todavía no sé cuál es mi ansiedad.

ルシアーノの作品の特徴のひとつは全体が細いこと。
この作品も細い。頭部(顔)なのだが、細くて長い。細さのために、目はひとつしかない。耳もない。
具象であるけれど、抽象でもある。具象と抽象が共存している。
目は好奇心に見開かれている。
口は官能的である。唇が濡れ、何か言いたそうである。
その間にある鼻は、無表情に見える。しかし、芯が強い。はみ出した頬骨も、この人物の精神の強さを語っているかもしれない。
でも、なぜ顔に見えるのだろう。
顔と持った瞬間から、この人物はどういう人間なのだろうと考えてしまうのだろう。
ひとは具象を見ても、抽象的なことを考える。
抽象的なものを見た場合は、さらに思考が強くなる。

人間は肉体を持っている。
肉体は世界共通だ。
その「共通」という考えは「抽象」である。
どんな具象のなかにも「抽象」が潜んでいて、それが具象の細部の違いを超える。
逆かもしれない。どんな抽象のなかにも「具象」が潜んでいる。それが抽象を共有する手がかりになる。

私は書きたいことがある。
しかし、私はそれをまだことばにできない。
そういう欲望と不安が、この作品を見ていると、私のなかに動く。
芸術は、私を欲望させる。芸術は、私を不安にさせる。
だが、私は、私の欲望が何であるか、まだ知らない。
私は、私の不安が何であるか、まだ知らない。
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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(43)

2019-12-11 10:39:47 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (薊の花が蝶をひきつけるように)

愛情が時間をひきつける

 このとき「時間」とは何だろうか。「過去」だろうか、「未来」だろうか、「いま」だろうか。時間をひきつけると時間は、どうなるのだろうか。「愛情」ということばは抽象的すぎるが、愛のさなか、とくに肉体の愛のさなかには、時間は消える。時間を忘れてしまう。
 ひきつけられたものは、自分の存在を忘れてしまう。「愛情」にひきつけられ、「愛情」は「愛情」がどういうものであるか、忘れてしまうだろうか。
 簡単には言えないのは、「愛情」も「時間」もかわりつづけるものだからだろうか。

水が空気をひきつけるように
憎悪が壁をひきつける

 「憎悪」は「愛情」、「壁」は「時間」を言い直したものか。











*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)

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桜を見る会の問題点(FBからの転載10)

2019-12-11 08:27:58 | 自民党憲法改正草案を読む
朝日新聞デジタル版(https://www.asahi.com/articles/ASMDB5J3KMDBUTFK018.html)(2019年12月10日19時17分)に次のように書かれている。

政府は10日、首相主催の「桜を見る会」に出席していたとされ問題になった「反社会的勢力」について、「あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難」とする答弁書を閣議決定した。
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
この決定は二つの問題点を含んでいる。
①「反社会的勢力」の定義が揺らぐのは当然だとしたら、いま、「反社会的勢力」をどう定義するかが語られていない。いまの「定義」をいわずに、「あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難」といってもしようがない。
これは、次のように言い換えることができる。
問題の桜を見る会に参加していたひと(菅と握手をしていたひと)が、かつて暴力団にいた。刑事事件も起こした、と仮定する。しかし、いまは反省し、刑期も終え、完全に更生し、ふつうの市民として暮らしている。もし、そうであるなら、菅と握手しているひとの「過去(経歴)」にこだわって排除するというのは正しいことではない。正義に反する。
「反社会勢力」の定義を、特定の人物にあてはめた場合、それをそのままにしておくというのはおかしい。そのひとの「いまの状態」から定義しなおす必要がある、という具合に論理展開することができる。
ただし、この場合は、「いまの状態」がどういうものであるか、具体的に説明する必要がある。
「反社会勢力」を「いま、同定義するか」、ある人物を「いま、同定義するか」が問題である。
②ここから、次の問題が生まれる。
たとえば、安倍が街頭演説をする。それに対して市民が「安倍辞めろ」とヤジを飛ばす。こうした行為を「反社会的」と定義してしまえば、ヤジを飛ばしたひとは「反社会的勢力」の一員となる。
実際、札幌で起きたことは、こういうことである。
警官が出動し、ヤジを飛ばしたひとを拘束し、排除した。
このときの「反社会勢力」の「定義」は公表されていない。
自民党は2012年の改憲草案に「緊急事態条項」を盛り込んでいるが、「社会的秩序の混乱」ということばの「定義」などは、いくらでも変更できる。
あらゆることは「あらかじめ限定的かつ統一的に定義することは困難」である、という言い方を容認すれば、どんなことでもあとから「定義」して「反社会的」と言えるということだ。

今回の閣議決定は、単なる「言い逃れ」の方便ではなくて、「自民党改憲草案」の「先取り実施」なのだ。
ブログで、すでに何度も何度も、そういう事例を指摘してきた。
もう、いくつ指摘してきたか、思い出せないくらいである。
今回、その具体例が、また追加になったのだ。
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