詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(53)

2019-12-21 11:13:20 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (驢馬は描かれた輪の上をぐるぐると廻つている)

人間はいつも己れ自身を求めている
二つの眼で世界を見ているためかも知れない

 「二つの眼」ということばに私はつまずく。
 驢馬には眼は二つないか。二つある。そうだとしたら「驢馬はいつも己れ自身を求めている/二つの眼で世界を見ているためかも知れない」とも言えるのではないか。なぜ「人間」なのか。
 「二つの眼」は肉眼のことではなく、肉眼の眼とこころの眼(精神の眼)のことか。感覚と知性のことか。そう言い換えても、やはり奇妙である。驢馬にも感覚もあれば知性もあるだろう。
 「知性」を「ことば」と言い換えるとどうだろうか。
 きっと驢馬にしたって、それなりの「ことば」を持っている。人間が理解できないだけだ。
 むしろ、この「人間」は「私」と読み替えた方がいいのかもしれない。「私はいつも己れ自身をもとめている」。それは「他人が共有していることば」と「私自身のことば」の「ふたつのことば」で世界を見ているためではないか。
 「ことば」は常に「ふたつ」に分裂する。ひとつは、自分自身にしかわからないことば、まだ「生まれていないことば」。そして、それこそが「己れ自身」であると嵯峨は語っている。











*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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J・J・エイブラムス監督「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」(★★)

2019-12-21 09:16:20 | 映画
J・J・エイブラムス監督「スター・ウォーズ スカイウォーカーの夜明け」(★★)

監督 J・J・エイブラムス 出演 デイジー・リドリー、アダム・ドライバー、ジョン・ボイエガ、オスカー・アイザック

 正確にはどう言ったのかわからないが、映画の後半に興味深いセリフが出てくる。「スピリット」と「ハート」をつかいわけている。主役のレイ(デイジー・リドリー)に対して、人間には「スピリット」は「ハート」がある、と言う。レイア姫だったか、ルークだったか、忘れてしまった。これは、言い直すと「ハート」があれば、人間は(レイは)ダークサイトには落ちない、という「予言」である。「ハート」を生きろという教えである。
 そうか。「スピリット」と「ハート」は、そういう具合につかいわけるのか。
 たぶん「科学」なども「ハート」でつくるのではなく、「スピリット」で切り開いてくものなのだろう。研ぎ澄まされた力。それは両刃の刃で、良い面もあるが危険な面もある。「ダスベーダー」は「ハート」を欠いているために、ダークサイトに落ちた。
 このときの「ハート」というのは、もう少し説明がいるだろう。たぶん、「愛」と言い直せばわかりやすくなる。そこには「憎しみ」は入っていない。私は単純な人間だから愛も憎しみも「こころ」の動きだと思うが、英語の感覚(ディズニーの感覚?)では「ハート」は「愛」なのだ。
 それを象徴するの「論理」と「シーン」が最後に二つ用意されている。ダスベーダーの親分(?)、パルパティーンが出てきて、レイに対して「俺を殺せ、憎んで殺せ。そうすればお前はダークサイトに落ちる。暗黒の支配者になれる」というようなことを言う。「憎しみ」がダークサイトにつながっている。「殺し」はどうしたって、どこかに「憎しみ」を含む。
 じゃあ、どうやって、その「縁」を断ち切るか。パルパティーンが繰り出す雷光のようなものを、レイはライトセーバーを十字に組み合わせて(キリストだね、笑ってしまうけれど)、その中心で反射させてしまう。パルパティーンはみずからの憎しみ(怒り)の「反射」で死んでしまう。レイはその死に直接関与していない。(詭弁だね。)だから、レイはダークサイトには落ちない。
 さらにパルパティーンとの闘いで死んでしまったレイをカイロ・レン(アダム・ドライバー)が自分のいのちを吹き込むことでよみがえらせる。キスシーンもある。これが「愛」。いかにもディズニーである。
 で、これを「ふたり」の物語ではなく、宇宙の物語にする。そのとき映画の最初につかわれていたことば「共生」がよみがえる。「愛とは共生である」。
 まあ、いいんだけれどね。映画だから。でも、映画だからこそ、「愛」とか「共生」なんてものはぶっ壊して「ダークな力」のなまなましさを展開して見せるというあり方もあっていいんじゃないかねえ。「ジョーカー」がそうであったように。だいたい、第一作の「スターウォーズ」がヒットしたのは、なんといってもダスベーダーの力だな。何だかわからない(セリフなんか聞こえない、息づかいだけ)けど、かっこいい。誰も傷つけない「共生」の世界は、理想かもしれないけれど、味気ないと思うよ。
 映画が「論理」になってしまっては、映画の意味がない。
 それにしても、42年前とは違って映画制作技術はどんどん発達しているか、宇宙船がやたらと出てくる。うるさすぎて、おもしろくない。もっと省略しても「量」を感じさせるのでないと、なんだか逆に「手抜き」に見えてしまう。工夫が足りない。それもつまらない理由だな。「おもちゃ」が減ったのもつまらないね。
 でも、まあ、これで「スターウォーズ」を見なくてすむと思うと一安心。「サイドストーリー」はこれからもつくられるだろうけれど。

(2019年12月20日、ユナイテッドシネマ・キャナルシティ・スクリーン13)
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