* (驢馬は描かれた輪の上をぐるぐると廻つている)
「二つの眼」ということばに私はつまずく。
驢馬には眼は二つないか。二つある。そうだとしたら「驢馬はいつも己れ自身を求めている/二つの眼で世界を見ているためかも知れない」とも言えるのではないか。なぜ「人間」なのか。
「二つの眼」は肉眼のことではなく、肉眼の眼とこころの眼(精神の眼)のことか。感覚と知性のことか。そう言い換えても、やはり奇妙である。驢馬にも感覚もあれば知性もあるだろう。
「知性」を「ことば」と言い換えるとどうだろうか。
きっと驢馬にしたって、それなりの「ことば」を持っている。人間が理解できないだけだ。
むしろ、この「人間」は「私」と読み替えた方がいいのかもしれない。「私はいつも己れ自身をもとめている」。それは「他人が共有していることば」と「私自身のことば」の「ふたつのことば」で世界を見ているためではないか。
「ことば」は常に「ふたつ」に分裂する。ひとつは、自分自身にしかわからないことば、まだ「生まれていないことば」。そして、それこそが「己れ自身」であると嵯峨は語っている。
*
詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
人間はいつも己れ自身を求めている
二つの眼で世界を見ているためかも知れない
「二つの眼」ということばに私はつまずく。
驢馬には眼は二つないか。二つある。そうだとしたら「驢馬はいつも己れ自身を求めている/二つの眼で世界を見ているためかも知れない」とも言えるのではないか。なぜ「人間」なのか。
「二つの眼」は肉眼のことではなく、肉眼の眼とこころの眼(精神の眼)のことか。感覚と知性のことか。そう言い換えても、やはり奇妙である。驢馬にも感覚もあれば知性もあるだろう。
「知性」を「ことば」と言い換えるとどうだろうか。
きっと驢馬にしたって、それなりの「ことば」を持っている。人間が理解できないだけだ。
むしろ、この「人間」は「私」と読み替えた方がいいのかもしれない。「私はいつも己れ自身をもとめている」。それは「他人が共有していることば」と「私自身のことば」の「ふたつのことば」で世界を見ているためではないか。
「ことば」は常に「ふたつ」に分裂する。ひとつは、自分自身にしかわからないことば、まだ「生まれていないことば」。そして、それこそが「己れ自身」であると嵯峨は語っている。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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