高島夏子「朝は障子戸を半分ぐらい開ける」(「展覧会のとなりからⅡ 詩篇」2020年02月01日発行)
高島夏子「朝は障子戸を半分ぐらいあける」は、ほんとうはタイトルがない。「無題」と書くと「無題」というタイトルと勘違いされそうなので、一行目をタイトルがわりにつかった。2018年10月に東京国立博物館でマルセル・デュシャン展を見て書かれた作品だ。
散文的にはじまる。「その半分くらい」の「その」ということばは、その散文的なことばをさらに散文化しているようにも思えるが、その「過剰さ」のようなものに私はひきつけられる。意識は過剰なのに、「半分ぐらい」ということばがそれを追いかける。そういう「リズム」というか「響き」にも、ひきつけられる。
何か、高島だけが知っていることが書かれようとしている。そういう「予感」を感じる。
この行の「この」もまた微妙である。実際にそれが「どのくらい」のものなのかは明示されず、「この」ぐらい。「その」と同じように、高島だけが知っていることが書かれている。「無意識」に知っている何かが書かれている。
でも、それが何か、わからない。
わからないけれど、ことばが「散文」のリズムを守っているので、静かにひきつけられる。ことばの静かさにひきつけられる。
この「重くなる」は気分のことか。「光」を描写していて、それが「光」から外れていく。その外れ方が「半分」「雨」をとおして、自然に動いている。
ここでも、ことばは「散文」的だと思う。言い換えると、思いがけない「飛躍」がない。
「晴れた日」から「雨の日」への転換さえ「半分」ということばを中心にして、自然につながる。「半分」が階段の踊り場のようにことばの運動を支えている。あるいは、促している。
私は、こういう「リズム」が好きである。
ことばの焦点(重心?)が「光」から書かれていない「気持ち」へと動いたあと、それまでの「リズム」が一変する。「散文」ではなく「詩」になる。「飛躍」が多くなる。「飛躍」が加速する。
「音」を中心に変化していく。
最後は「夢」を繰りかえし、どちらが「夢」なのかわからなくなる。リアリズム(散文)ではなくなってしまう。「最近台所の蛇口の閉まりが悪くて」というきわめて日常的な(散文的な)ことばが、「現実(散文)」に区切りをつけるというか、ここで「散文」はおしまい、これからはじまる「詩」の背景になると宣言しているようにさえ思える。
この一行が非常に美しい。それこそ「夢」でも見ているのではないか、夢のなかにやってきた「ことば」ではないか、という感じだ。この美しさがあるから「水音が変化する」が、実際に変化したものとして聴こえてくる。
女と胃袋が出てきて「うかつにも上着のボタンをはずしたらしい」と変化するとき、最初の方に出てきた「半分」がふいに、私の肉体のなかによみがえる。女は「全裸」ではなく「半裸」なのだ、思う。
理由はないのだが。
「りんご」は唐突だが、「トマト」ジュースとどこかで連絡しているかもしれない。切断と接続が、あるのかないのか。このわからない「混乱」も、「詩」っぽくていい。全部が「論理」でつながらなくてもいい。好きなところだけを味わえばいい。
そう思ったりする。
*
補足。
前半にしきりにでてくる「ぐらい」という音。この音に私は非常ななつかしさを感じた。私も昔は「ぐらい」と言った。いまは「くらい」という。なぜか、九州で「半分ぐらい」の「ぐ」を鼻濁音で発音すると怪訝な顔をされる。九州の人は鼻濁音ではなく破裂音で発音する。そると、それは私には「くらい」に聴こえる。だから自然に「半分くらい」という癖がついてしまった。高島は富山の人なので、鼻濁音で「半分ぐらい」というのだろう。その音が、ふっと耳に(肉体に)よみがえったのである。
高島夏代というのは、もしかすると高島順吾の娘の「夏ちゃん」?
誰にもわからないことを、こっそりと書いておく。私の感想は「日記」なので。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
高島夏子「朝は障子戸を半分ぐらいあける」は、ほんとうはタイトルがない。「無題」と書くと「無題」というタイトルと勘違いされそうなので、一行目をタイトルがわりにつかった。2018年10月に東京国立博物館でマルセル・デュシャン展を見て書かれた作品だ。
朝は障子戸を半分ぐらい開ける
晴れた日はそれだけでまぶしい
部屋の奥にはその半分ぐらいの光が届く
散文的にはじまる。「その半分くらい」の「その」ということばは、その散文的なことばをさらに散文化しているようにも思えるが、その「過剰さ」のようなものに私はひきつけられる。意識は過剰なのに、「半分ぐらい」ということばがそれを追いかける。そういう「リズム」というか「響き」にも、ひきつけられる。
何か、高島だけが知っていることが書かれようとしている。そういう「予感」を感じる。
このぐらいがちょうどいい
この行の「この」もまた微妙である。実際にそれが「どのくらい」のものなのかは明示されず、「この」ぐらい。「その」と同じように、高島だけが知っていることが書かれている。「無意識」に知っている何かが書かれている。
でも、それが何か、わからない。
わからないけれど、ことばが「散文」のリズムを守っているので、静かにひきつけられる。ことばの静かさにひきつけられる。
雨の日も半分ぐらいである
いっぱいに開けても明るくなるわけでもない
開けすぎると肩に雨がかかるような気がして
重くなる
この「重くなる」は気分のことか。「光」を描写していて、それが「光」から外れていく。その外れ方が「半分」「雨」をとおして、自然に動いている。
ここでも、ことばは「散文」的だと思う。言い換えると、思いがけない「飛躍」がない。
「晴れた日」から「雨の日」への転換さえ「半分」ということばを中心にして、自然につながる。「半分」が階段の踊り場のようにことばの運動を支えている。あるいは、促している。
私は、こういう「リズム」が好きである。
ことばの焦点(重心?)が「光」から書かれていない「気持ち」へと動いたあと、それまでの「リズム」が一変する。「散文」ではなく「詩」になる。「飛躍」が多くなる。「飛躍」が加速する。
「音」を中心に変化していく。
誰もいない部屋 時計の音 車が通りすぎる音
最近台所の蛇口の閉まりが悪くて
水が読点のように落ちる
テーブルの上にはトマトジュース
水音が変化する
何かに当たってはじいている音
眠りすぎた女の胃袋だ
うかつにも上着のボタンをはずしたらしい
横にのびきっているが水滴があたるとぴくりと縮む
りんご
の
夢を食べている
夢でも見ているのだろうか
最後は「夢」を繰りかえし、どちらが「夢」なのかわからなくなる。リアリズム(散文)ではなくなってしまう。「最近台所の蛇口の閉まりが悪くて」というきわめて日常的な(散文的な)ことばが、「現実(散文)」に区切りをつけるというか、ここで「散文」はおしまい、これからはじまる「詩」の背景になると宣言しているようにさえ思える。
水が読点のように落ちる
この一行が非常に美しい。それこそ「夢」でも見ているのではないか、夢のなかにやってきた「ことば」ではないか、という感じだ。この美しさがあるから「水音が変化する」が、実際に変化したものとして聴こえてくる。
女と胃袋が出てきて「うかつにも上着のボタンをはずしたらしい」と変化するとき、最初の方に出てきた「半分」がふいに、私の肉体のなかによみがえる。女は「全裸」ではなく「半裸」なのだ、思う。
理由はないのだが。
「りんご」は唐突だが、「トマト」ジュースとどこかで連絡しているかもしれない。切断と接続が、あるのかないのか。このわからない「混乱」も、「詩」っぽくていい。全部が「論理」でつながらなくてもいい。好きなところだけを味わえばいい。
そう思ったりする。
*
補足。
前半にしきりにでてくる「ぐらい」という音。この音に私は非常ななつかしさを感じた。私も昔は「ぐらい」と言った。いまは「くらい」という。なぜか、九州で「半分ぐらい」の「ぐ」を鼻濁音で発音すると怪訝な顔をされる。九州の人は鼻濁音ではなく破裂音で発音する。そると、それは私には「くらい」に聴こえる。だから自然に「半分くらい」という癖がついてしまった。高島は富山の人なので、鼻濁音で「半分ぐらい」というのだろう。その音が、ふっと耳に(肉体に)よみがえったのである。
高島夏代というのは、もしかすると高島順吾の娘の「夏ちゃん」?
誰にもわからないことを、こっそりと書いておく。私の感想は「日記」なので。
*
評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093
「詩はどこにあるか」2020年1月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168078050
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)
オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。
*
以下の本もオンデマンドで発売中です。
(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512
(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009
(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804
(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977
問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com