詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高島夏子「朝は障子戸を半分ぐらい開ける」

2020-02-09 15:45:34 | 詩(雑誌・同人誌)
高島夏子「朝は障子戸を半分ぐらい開ける」(「展覧会のとなりからⅡ 詩篇」2020年02月01日発行)

 高島夏子「朝は障子戸を半分ぐらいあける」は、ほんとうはタイトルがない。「無題」と書くと「無題」というタイトルと勘違いされそうなので、一行目をタイトルがわりにつかった。2018年10月に東京国立博物館でマルセル・デュシャン展を見て書かれた作品だ。

朝は障子戸を半分ぐらい開ける
晴れた日はそれだけでまぶしい
部屋の奥にはその半分ぐらいの光が届く

 散文的にはじまる。「その半分くらい」の「その」ということばは、その散文的なことばをさらに散文化しているようにも思えるが、その「過剰さ」のようなものに私はひきつけられる。意識は過剰なのに、「半分ぐらい」ということばがそれを追いかける。そういう「リズム」というか「響き」にも、ひきつけられる。
 何か、高島だけが知っていることが書かれようとしている。そういう「予感」を感じる。

このぐらいがちょうどいい

 この行の「この」もまた微妙である。実際にそれが「どのくらい」のものなのかは明示されず、「この」ぐらい。「その」と同じように、高島だけが知っていることが書かれている。「無意識」に知っている何かが書かれている。
 でも、それが何か、わからない。
 わからないけれど、ことばが「散文」のリズムを守っているので、静かにひきつけられる。ことばの静かさにひきつけられる。

雨の日も半分ぐらいである
いっぱいに開けても明るくなるわけでもない
開けすぎると肩に雨がかかるような気がして
重くなる

 この「重くなる」は気分のことか。「光」を描写していて、それが「光」から外れていく。その外れ方が「半分」「雨」をとおして、自然に動いている。
 ここでも、ことばは「散文」的だと思う。言い換えると、思いがけない「飛躍」がない。
 「晴れた日」から「雨の日」への転換さえ「半分」ということばを中心にして、自然につながる。「半分」が階段の踊り場のようにことばの運動を支えている。あるいは、促している。
 私は、こういう「リズム」が好きである。
 ことばの焦点(重心?)が「光」から書かれていない「気持ち」へと動いたあと、それまでの「リズム」が一変する。「散文」ではなく「詩」になる。「飛躍」が多くなる。「飛躍」が加速する。
 「音」を中心に変化していく。

誰もいない部屋 時計の音 車が通りすぎる音
最近台所の蛇口の閉まりが悪くて
水が読点のように落ちる
テーブルの上にはトマトジュース
水音が変化する
何かに当たってはじいている音
眠りすぎた女の胃袋だ
うかつにも上着のボタンをはずしたらしい
横にのびきっているが水滴があたるとぴくりと縮む
りんご

夢を食べている
夢でも見ているのだろうか

 最後は「夢」を繰りかえし、どちらが「夢」なのかわからなくなる。リアリズム(散文)ではなくなってしまう。「最近台所の蛇口の閉まりが悪くて」というきわめて日常的な(散文的な)ことばが、「現実(散文)」に区切りをつけるというか、ここで「散文」はおしまい、これからはじまる「詩」の背景になると宣言しているようにさえ思える。

水が読点のように落ちる

 この一行が非常に美しい。それこそ「夢」でも見ているのではないか、夢のなかにやってきた「ことば」ではないか、という感じだ。この美しさがあるから「水音が変化する」が、実際に変化したものとして聴こえてくる。
 女と胃袋が出てきて「うかつにも上着のボタンをはずしたらしい」と変化するとき、最初の方に出てきた「半分」がふいに、私の肉体のなかによみがえる。女は「全裸」ではなく「半裸」なのだ、思う。
 理由はないのだが。
 「りんご」は唐突だが、「トマト」ジュースとどこかで連絡しているかもしれない。切断と接続が、あるのかないのか。このわからない「混乱」も、「詩」っぽくていい。全部が「論理」でつながらなくてもいい。好きなところだけを味わえばいい。
 そう思ったりする。



 補足。
 前半にしきりにでてくる「ぐらい」という音。この音に私は非常ななつかしさを感じた。私も昔は「ぐらい」と言った。いまは「くらい」という。なぜか、九州で「半分ぐらい」の「ぐ」を鼻濁音で発音すると怪訝な顔をされる。九州の人は鼻濁音ではなく破裂音で発音する。そると、それは私には「くらい」に聴こえる。だから自然に「半分くらい」という癖がついてしまった。高島は富山の人なので、鼻濁音で「半分ぐらい」というのだろう。その音が、ふっと耳に(肉体に)よみがえったのである。
 高島夏代というのは、もしかすると高島順吾の娘の「夏ちゃん」?
 誰にもわからないことを、こっそりと書いておく。私の感想は「日記」なので。







*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(22)

2020-02-09 11:01:09 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (ふるさとというのは)

そこだけに時が消えている川岸の町だ
そこの水面に顔をうつしてみたまえ
背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから

 「そこ」ということばが指し示す「場」が、わかったようで、わからない。どのことばにも、こういうものがある。英語の「there is」の「there 」、フランス語の「il y a」の「y 」に似ているかもしれない。意識の「奥」にある「そこ」。無意識に思い浮かべる「そこ」。
 「背後から大きな瞳がじつときみを瞶めているから」という行が「意味深長」というか「意味」をくすぐるので、そこに目が向いてしまうが、詩は「意味」ではない部分にこそ存在すると、私は思う。
 「肉体」の奥、ことばにならない何かを刺戟するのが詩だ。

 (余談)
 しばしばフランス語の「il y a」が詩を語るときに「引用」される。「il」は「彼」、「a 」は「持つ(avoir )」。「もの」があるとき、「彼が持っている」というのは「独特」である、「彼」が主語になるのが日本語、英語と違っているという「文脈」で。
 私は初歩の初歩のフランス語しか知らないが、変わっているのは「y 」の方である。いったい、「y 」って、どこ? 「on y va 」「allons y」「j'y vais」と言われたとき、「どこへ?」と聞き返したら、きっと奇妙な顔をされるだろう。
 この「y 」はスペイン語になると「hay 」という活用と「脈絡」を持っている。「かれは持っている」は「el ha 」だが、「もの」が「ある」というときは「haber 」が単独で「hay 」という形になる。無意識(?)の「y 」の名残のようなものだ。
 無意識が指し示す「そこ」というものが、きっとどの国のことばにもあるのだと思う。そういうものが、嵯峨のこの詩にもあらわれている。

 ここに書いたことは、あくまでも、余談というか、知ったかぶり。私はフランス語もスペイン語も、初歩の初歩でつまずいた。その昔、有田忠郎のフランス語の授業を受けたが、長い聞き取りの問題があって、その最後が「Je suis fatigué」だった。「谷内君、できたかね」と言われて「Je suis fatigué」しか書けませんでした」と答えて、笑われてしまった。それ以来、フランス語は知らない。スペイン語は完全な独学、NHKのラジオ講座の「入門編」を卒業できない。







*

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