詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

光冨郁埜「霧ノナカ」

2020-02-10 16:49:40 | 詩(雑誌・同人誌)
光冨郁埜「霧ノナカ」(「オオカミ」35、2020年01月発行)

 光冨郁埜「霧ノナカ」の一連目。

息をすることにも疲れて 自分の年齢を越えた日
引き出しのなかの無効となった 契約書・権利書・覚え書き
棚に乱雑に放り込まれた 一行だけの数冊の日記帳
数十年経っても 一度も読み返されない愛読書の扉
思い出すこともできない 昨日と今朝の日常の匂い 数枚の手紙

 ここには現実と非現実がある。いいかえるとことばにできるものと、ことばにしかできないもの(ことば以外では存在しないもの)がある。矛盾のないものと、矛盾でしかないもの、可能なものと可能ではないものがある。そうのうちの「ことばにしかできないもの」「ことばのなかだけで存在しうるもの」を、どれだけ「ことば以外でもありうる」と感じさせるか(錯覚させるか)ということが重要になる。「そういうもの、ってあるよなあ」と感じさせるか。

数十年経っても 一度も読み返されない愛読書の扉

 一度も読み返さない本は「愛読書」ではない。しかし、いつも読み返したいと思う。一番好きな本を「愛読書」と呼ぶこともある。「愛/読書」「愛する本」というわけだ。だから一度も読んだことのない「愛読書」というものも、ときには存在する。「あの本は、ぜひ、読まなくては」というわけである。
 ことばとして矛盾しているが、その「気持ち」はわかる、と言い直せばいいか。
 一行目も、そういう「感じ」を含んでいる。

息をすることにも疲れて 自分の年齢を越えた日

 人間は「自分の年齢を超える」ということはできない。いつも「自分の年齢」と一緒に生きている。しかし、「息をすることにも疲れる」くらいに生きていることが嫌になった、でも死ぬことができずに生きていると感じるとき、死ぬはずだった自分の年齢を超えている、生き生きと生きた自分を捨ててまだ生きていると感じるときが人間にはある、と言われれば、そうだろうなあと思う。
 簡単には言いきれないことなのだけれど、そして簡単に言ってしまうと「矛盾」になるのだけれど、ことばを越えた部分で納得してしまう。ことばにならないことばが動いていると感じると言えばいいのか。
 こういうことを「説得」せさるために、「現実」をそのまま描いた「ことば」がある。

引き出しのなかの無効となった 契約書・権利書・覚え書き
棚に乱雑に放り込まれた 一行だけの数冊の日記帳

 「一行だけの日記」というのは強調だろうが、誰にでも途中でやめてしまった日記というものがあるだろう。そういう「現実」があるから、「非現実(矛盾)」も、そこには「説明されないことばが省略されている」と感じながら、「事実」として受け入れる。
 こういうとき「現実」と「非現実」をつなぐものは、「無効」あるいは「失敗」という「否定」につながる何かなのだ。「挫折」と言ってもいい。「敗北」と言ってもいい。
 そして、この「敗北」を美しいことばに整えて提出したものが「抒情(詩)」というものである。
 この一連目には、そういう「抒情病(山本育夫)」が凝縮している。特徴づけるのが

思い出すこともできない 昨日と今朝の日常の匂い 数枚の手紙

 この一行の「思い出すこともできない」である。
 「思い出すこともできない」というのは、ほんとうに忘れているというよりも、「覚えている」けれど「ことばにできない」ということである。「ことば」が「事実」に敗北している。そして、その「敗北」を受け入れ、とどまることで、「敗北」を消し去るのではなく、「いま/ここ」に噴出させる。
 自分のことばではなく、それを読んでいる読者の「思い出」そのものを噴出させる。「数枚の手紙」を書いたこと、受け取ったこと。そのときの感情は、いつも「肉体」の奥に残っている。噴出できる瞬間を待っている。
 それは「昨日と今朝の日常の匂い」のように、何かが違っているはずだが、「つづいている」。

 しかし、このあと、どうやって詩をつづけるか。

意欲もなくなり ただ台風がねこそぎ持ち去っていく
白い空 白い海

 「意欲もなくなり」では「説明」になってしまう。「散文」になる。「流通言語」になってしまっている。
 これは光冨も気づいているのだろう。

(白い空 白い海 白イ空 白イうミ しろイソラ しロイウミ

 と、「表記」を強引に変えていく。この表の記変化のなかに光冨の「未生のことば」を再現しようというのだが、私は、こういうやり方にはまったく与することができない。「ことばにならない変化」を「表記」の違いにしてしまっては、「違いがある」ということを表現しようとしていることはわかるが、「違い」そのものはわからない。
 「意味」というか、「頭で考えたこと」をことばにするというよりも、すでにそこにある何か(つまり表記の違い)を利用して、「ことばにならない何か」をひっぱりだそうとしている。それは考えないということに等しい。「肉体」は動いていない。「頭」が「記憶」を操作しているだけである。
 「白い」が「白イ」に変わるとき、色の何が違ったのか。「海」が「うミ」に変わるとき、光冨の「肉体」のなかで何が起きたのか。「しろイソラ しロイウミ」が光冨の「肉体」のなかでどう動いているのか。
 読みたいのは、それだ。
 「表記」ではない。








*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(23)

2020-02-10 08:36:10 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (愛するように)

太陽はすべての影をま上から奪つてしまう
水差しに水はない

 詩、あるいは比喩と言い直した方がいいか。比喩はことばを入れ替えると「世界」がより正確に見えてくる。

太陽のように
愛はすべての影をま上から奪つてしまう

 愛が太陽なのか、太陽が愛(愛すること/愛されること)なのか。愛したために、「愛(こころ)」をすべてきみに注いだために、こころの「水」がなくなったのか。愛されたために、こころが沸騰し、「水」が蒸発してしまったのか。
 その日、そのとき、そのことば(詩)を必要としている人間にあわせて、「意味」は変わっていく。








*

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