野沢啓「世界という比喩--言語比喩論」(「走都」第二次4、2020年02月01日発行)
野沢啓「世界という比喩--言語比喩論」を読みながら、いろいろなことを考えた。これから書くのは「批評」、あるいは「感想」というまとまったものではない。思いつきである。思いつきを書き並べても意味はないかもしれないが、「批評」にするために「論理」として整えてしまうと、きっと考えたこととは違ったことを書いてしまうだろう。読みながら考えることは、ただ単に考えることであって、それは瞬間的な「反応」である。だから、どうしても「矛盾」が含まれる。「さっき納得したのに、いまは反発している」(さっき好きと言ったのに、いまは大嫌いと言っている)というようなことが起きる。私は、こういう「矛盾」を排除したくない。とりあえずは書き留めておく。そのうち、それは「好き嫌い」の濃淡を変化させながら、落ち着くところに落ち着く。それがいつになるかはわからないし、濃淡は状況が変わればまた変化する。その変化にまかせる、ということである。私は「学者」でもないし、「理論家」でもない。もともと「論理的」な人間ではないので、「矛盾している」と言われても、それがどういうことかよく理解できないこともある。
と、前置きは、ここまで。
と、書きながら、少し、前回書いたことを引きずる。
野沢は「詩は散文に先行する」と書く。原始人の発する最初のことばは「論理(散文)」ではなく、ある契機によって生み出される、ということを根拠にする。私が理解している範囲で言い直せば、「危険」とか「驚き」とかを他の仲間に知らせる。それが最初にある。それは「呪術(魔術)」のような形で原始社会をリードするようになる。それは「散文」とはいえないものだ。詩だ。これが野沢の出発点である。
この考えを、私は「頭」では「理解」したつもりになる。しかし、私の「過去」を振り返ってみると、ことばは、そんなふうにしてあらわれてこなかった。私が「ことば」を最初に「ことば」として理解したのは(もちろん、あとから思いなおしてのことだけれど)、小学校に入学する前に「名前くらい書けなければいけない」と言いながら、父がひらがなを教えてくれたときだ。それまで、私は「なまえ(名詞)/ことば」というものを明確に理解していなかった。「なまえ」がなくても「もの」が「ある」。「ある」が先にあったからだ。そして、その「ある」は全部つながっていた。「ある」というだけで充分であり、いちいち「区別」する必要がなかった。必要なときだけ、そこに「ある」ものを呼べばよかった。「呼ぶ」ということが「ある」を「もの」に変える。そのとき「呼ぶ」を支えるのは、「肉体の欲望/本能」であり、本能であるかぎり、それはある種の「論理」をもっていると思う。「生き続ける」ということ。その「つづける」が、たぶん、「論理」というものであり、それは「散文」だと私は感じる。
と書いてしまうと、だんだん、書こうとしていたことと違ってくるのだが……。
何か、「詩は散文に先行する」という「定義」を、そのまま受け入れることにためらいがある。
野沢は、「詩は散文に先行する」という「章」のあと「哲学は詩を説明するか?」という「章」で、詩と哲学の関係を考察している。「歴史家はすでに起こったことを語り、詩人は起こる可能性のあることを語る」というアリストテレスのことばを引用している。「歴史家」を「散文家」と言い直せば、「詩は散文に先行する」になる。そして、「哲学」も「散文」である。したがって、「詩は哲学に先行する」。これは野沢が前回書いていた古代人が雷に驚き声を発するという描写につながっている。これも、「頭」で考えるかぎり、野沢の書いている通りである。
このあと「トピカとクリティカという視角」という「章」で「哲学」とはどういうことかを考察している。ここに書かれていることは、「頭」でもなかなか理解できない。私は「哲学書」というものをめったに読まないし、野沢が引用しているヴィーコはまったく読んだことがないから、私にそれを理解するだけの「基礎」がないということになる。だから、ここから何かを考えるということは私にはできない。
その次の「章」は「詩は制作である」。この「制作」は、言い直せば「歴史」ではない、ということだろう。「起きたこと」ではなく「起きうることを、ことばで先取りする」(言い直せば、制作する/でっちあげる)」のが詩。楽しい定義である。わくわくする。そして、その「わくわく」に、三木清の、こんなことばが引用される。
作ることは単に意識の内部に於て起こり得ることではなく、作るためには我々は身体を必要とし、外部の存在に働きかけて、我々の外部に作品が出来上がるといふことが問題である。(野沢は「正字体」で引用しているが、私は普及している字体に書き換えた)
私は、この三木の考え方には、半分「保留」をつける。「わくわく」するのだけれど、どうしても一歩引きたくなる。のめりこめない。理由は簡単である。「身体」ということばにつまずく。
私は「身体」は「身体検査」くらいにしかつかわない。どうも「気取っている」。私は「肉体」ということばを好む。「肉体のことば/ことばの肉体」という具合に。私が「肉体」ということばをつかうとき、それは「未整理のもの」を含む。「すけべ」なものを含むといえばいいのか。女の肉体、男の肉体。触ると、あるいは触られると、どうなるかわからない。好きと思っていたのに嫌いになる、嫌いだと思っていたのに好きになる、ということが、私の意識を裏切るように起きてしまう。そして、それを「精神」で制御できるかどうか、よくわからない。「身体」ということばでは、その「すけべ」が消えてしまって、何か違うと思うのだ。何か「精神的」なフィルターをとおしたあとの「論理」のようなものを感じる。別なことばでいえば「哲学」として語られているような気がして、構えてしまう。
で、この「精神的/哲学的/あるいは散文的」な考察は「身体」の「身」ということばを利用しながら、「身分け=言分け、そして世界へ」という「章」へ進む。そして、そこに野沢のこんなことばがある。
日常生活の時空間から離陸してことばの世界に入るとき、詩人は自分をとりかこむ世界というものが巨大な空虚であることをいやおうなく認識させられる。
ここだね。私が、どうしても書きたいと思ったことは。私は、ことばというものについて、野沢とはまったく違う立場にいる。ことばと世界の関係のとらえ方が、どこかで完全に違っている。どこか違うか、というのは、説明がむずかしいが、「違う」と言いたくなるものがあるということだ。
私の言う「肉体」は、ここでは「日常生活」、あるいは「日常生活の時空間から離陸しない/密着したことば」のこと。「身体」は野沢が書いているように「日常生活の時空間から離陸」した「ことばの世界」で動いていることば。「日常生活」ではないから、とうぜんのようにして「空虚」というものがある。「空虚」とは「精神」がつかみとる現実であって、「肉体」はそういうものには触れることができない。「肉体」はあくまで手に触れることができるもの肌で触れることができる「実体」とのみつきあう。「もの」には「内部」というものがあり、それは「肉体」では絶対につかみとれないものだったりするが、そういうときは「外部」で満足するしかない。一種の「限界」をつねにつきつけられているのが「肉体」。「空虚」は「肉体」にとっては「死」だろうなあ、言い換えると「一線」を越えたものだろうなあと思う。
この「肉体」ではつかみ取れないものをつかみ取るために「精神(意識)/哲学」というものがあるのだけれど、これを強引に「肉体」の側に引き寄せるために「身体」ということば、「身」ということばがつかわれている。野沢は、この「論調」にのって、ことばを展開している。市川浩の『精神としての身体』から、こんなことばを引用する。
身が身で世界を分節化するということは、身が世界を介して分節化されるということにほかなりません。このような共起的な事態を〈身分け〉と呼びたいと思います。
うーん、と私はうなる。「身が世界を介して分節化される」というのは、まさに「頭/意識」のなかで描かれた「イメージ」であって、私にとっては「現実」ではない。「身」(身体)はさまざまに「分節」できるだろうけれど、「肉体」は「分節」すると、もう生きてはいけない。
「分節」ということばをどう把握するかにもよるのだと思うけれど、私は、「分節」との「分」はあくまで便宜上のこと(方便で言うだけのこと)であって、「節(ふし)」というものがついてまわるもの、絶対に「独立」して存在するものではないと考えている。〈身分け〉と言ってしまうと、「身節」(こんなことばはないだろうなあ)が存在しなくなる。そこでつまずく。
最初に書いたことに戻ると、世界はあくまで連続している。どこまでも切れ目なくつづいている。必要に応じて、そのなかから何かを選び出して、それに触れるだけであって、そのときも世界はつづいているし、私の「肉体」もつづいている。
「身分け」というとき、それが精神的(意識的/哲学的)なものだから、それは即座に「言分け」と結びつけられ「身分け=言分け」と定義もされるのだけれど、そういう表現をつかうとき、残された「節」はどうなるのか。「身節(つづき/つなぎめ)=言節(つづき/つなぎめ)」が気になってしまうのである。
私は「身体論」は「精神論/意識論/哲学」にすぎないのではないかと、どうも、うさんくさく感じてしまう。
*
私の頭では整理できないことを野沢は書いている。そして、そのあと安藤元雄の「からす」に対する批評を書いている。これは、とても分かりやすく、感動した。その批評のハイライトの部分。
目の前の世界にたいしていっさい行動しないという身分けの選択(実存)において、消極的ながら世界に介入しているのである。
ここに「身分け」ということばがつかわれているのだが、書かれていることはかなりかわった「分節」である。私は、ふと、フェイスブックで対話したことのある中国人(台湾人)の言ったことを思い出すのである。荘子の思想は「何もしないこと」というのである。そして「尽人力,听天命」は英語でいえば「do the best, let it be」。荘子の何もしないはレット・イット・ビー。私はなるほどと思った。野沢は「実存」ということばをつかっているが、確かに「実存」と呼ばれるのが荘子の思想かもしれない。そして、私は、この荘子的「分節」を「身分け」と呼ぶのは違うのじゃないかなあと、どうしても感じてしまう。
そういうこともあって、
ことばが世界とじかに対峙するとき、すなわち詩人が原始人の心性のままに既成の意味をとりはらってまっさらな世界と対峙しようとするとき、ことばは豊かな感性をとりもどし、あらたな発見を見いだせるかもしれない。
ことばそれ自体の暗喩性とは人間が世界と対峙するときのことばの〈身分け=言分け〉構造のことであり、詩が書かれるということは、ことばがことばの〈身分け=言分け〉構造において世界を切り拓いていくことを指しているのである。
というような、思わず傍線を引きながら読み返してしまうことばも、そうだ、そのとおりだとはなかなか思えないのである。「ことばがことばの〈身分け=言分け〉構造」という部分は、「ことばの肉体」という私のことばで言うとどうなるかなあ、と考えたりするのである。
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