詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池田清子「いないということ」、青柳俊哉「円輪」

2020-02-16 15:56:28 | 現代詩講座
池田清子「いないということ」、青柳俊哉「円輪」(朝日カルチャー講座、2020年02月03日)


いないということ     池田清子

それは
川のように
遠くではないよ

紙一重というけれど
そんなに厚くもないよ

薄-----------い膜の
右 と 左

 「いない」。でも、「いない」と「実感」できない。むしろ「いる」と感じる。「いない/いる」の違いはなんだろうか。
 一連目の「川のように」という比喩は、さまざまに読むことができる。
 いま、ここにいない。そして、その「いない」をみつめるとき、窓の向こう、遠くの景色が見える。そこには川があることを知っている。その川までの「距離」を知っている。その知っている「距離」ほどには遠くない。「もっと近くにいる」
 二連目は「遠く」の逆を書いている。「近く」にいる。しかも、その「近く」というのは、説明がとてもむずかしい。「紙一重」というのは、隔てるものがほとんどない状態を指すが、その「紙一重」という比喩でさえ「厚み(距離)」を感じさせるので、適切ではない。
 三連目で、二連目の「厚さ(距離)」を言い直す。「薄-----------い膜」と。でも、それは言いたいことではない。言いたいのは「いる」と感じるときの、その感じ方。「前と後ろ」「上と下」ではなく、「右と左」。隣り合っている。並んでいる。そういう感じ方こそを言いたい。
 「いない」けれど「いる」と感じる。そして、そのとき二人は右と左に並んでいる。ほんとうは「いない」のだから、「いる」私と、「いない」あなたの距離はとても遠い。川よりも遠い。けれどあなたが「いる」と感じるとき、その「いる/いない」のあいだの距離はとても短い。密着している。しっかりと結びついている。
 一連目の「川のように」は「三途の川」ということばも思い出させる。あなたが「いない」のは彼岸へ行ってしまったからだ。川ということばは「岸」と結びついて、そういうことも連想させる。
 「いない」ということは、「いる」ということを「実感」することである。「いる」のは、いつでも「近く」である。そして、そのとき二人はいつも並んでいる。
 「川」「紙一重」「薄い膜」。現実と比喩が静かに交錯する。短いけれど、情がこもったことばが動いている。


円輪(えんりん)        青柳俊哉

大沼の岸辺を歩きながら
空からふる深い
枯葉をふみしめ
かれらの声と感覚につつまれている
きのう雪の結晶であったものを
きょうは緑の羽をつけたちいさい少年が
足もとの葉から葉をわたって
水のうえに無数の円をえがいている
わたしたちにきざまれる幸福なしるし
遠い水平線から一羽の鳥がこちらへむかってやってくる
少年とよく似た陰影をもつ鳥
鳥は岸辺をしばらく並走したかとおもうと
わたしのかげにかさなり
大沼をつつみこむ霊気の中にきえた 
引かれているのだ 
大気にうずまく無数の輪の中に
ふりつもる枯葉の声と感覚につつまれ
空と水をわたっているのだ

 詩のなかほどの「遠い水平線から一羽の鳥がこちらへむかってやってくる」という一行が印象的だ。「ふる」という動詞は「空からふる」とつかわれている。上から下への動きである。「ふみしめる」も垂直の動き。「かれら(枯葉)の声」「雪」も上からやってくる。そして、その上から下への動きに向き合うように「足もと(下)」から動いていくものがある。垂直に上へ向かうのではないが、鳥のように浮かび上がりながら動いていく。静かな上昇運動だ。
 そうした動きを切り開く、新しい動きを世界にもたらすようにして鳥が「遠い水平線」からやっている。それは「水平線」のように横に広がる動きである。
 この動きによって、垂直と水平が交錯し、世界がより立体的になる。
 「少年とよく似た陰影を持つ鳥」の「陰影」とは何か。受講生から疑問の声が出た。「わかりにくい」。しかし、こういうことは作者に「答え」をもとめてもおもしろくない。「陰影」とは何かは、自分の知っている「ことば」のなかへ引き返していきながら、そこからつかみとってこないといけない。
 池田の詩を読んだとき「川」は「三途の川」につながる、と書いた。「川」をつかってことばを動かすとき、「三途の川」ということばがあらわれる。さらに「川」から「岸」ということばが連想され、「彼岸/此岸」ということばも思い浮かぶ。そして、そう思ったとき、池田の「いない」というのは、相手が亡くなってしまって「いない」ということなのだと伝わってくる。「誤読」かもしれないが、そういう「つたわってくる何か」を感じること、自分で何かをくみ取るということが読むということなのだと思う。
 同じように「陰影」についてもことばを動かしてみる。「陰影」ということばを、どういうふうにつかうか。「他人が」ではなく、「自分は」どうつかうか。「もの」そのものに対しては「陰影」とことばを重ねるよりも「影」と単独でつかう。木の影、人の影。でも「陰影のある人だね」というときは、どうだろうか。「肉体」ではなく「こころ」とか「雰囲気」を思い浮かべる。「肉体」につながるものでも、たとえば「陰影のある声」とは言うかもしれない。「陰影のある表情」は言いそうで言わないかも。しかし、ひとの「表情(顔色の変化)」などは「陰影」と呼べそうである。何か「こころ」とか「気持ち」が動いているとき、「陰影」ということばをつかいそうである。
 そうであるなら「少年とよく似た陰影をもつ鳥」というのは「少年のこころ/気持ちと重なる鳥」ということになる。少年は、遠い水平線からやってくる一羽の鳥を「自分自身」と思ってみつめていることになる。
 「わたし」(わたしたち)は大沼の岸辺を歩いている。枯葉がふってくる。枯葉を踏む。音が聞こえる。そういう「現実」がある一方、歩きながら「現実」とは少し違うことも「夢想」する。「いま/ここ」にないものを思い描く。「いま/ここ」にある「しあわせ」と「いま/ここ」にない「しあわせ」。夢、理想。そういうものが、遠くから「鳥」のようにやってくる。それは「わたし」のなかの「少年」が生み出した何かだろう。
 「わたし」は「少年」であり、また「鳥」である。それは「並走」し、「重なる」。「かげにかさなる」とは「こころにかさなる」でもあるだろう。「こころ」が「かさなる」ことで「わたし/少年/鳥」は「ひとつ」になる。言い換えると、ことばを動かすことで自分が自分ではなくなってしまう。新しい自分に生まれ変わる。最後の三行は、そういう「生まれ変わったわたし」の姿である。「わたし」でも「少年」でも「鳥」でもなく、「空と水をわたる」何か、不思議な「感覚」(霊気)になって世界を動いていく。
 しかし、「霊気」ということばは、この詩にぴったりとは言えない。青柳は「霊気」と感じているのだろうけれど、あまりにも抽象的でつかみどころがない。あるいは、「意味」が強すぎて、「現実」としては見えてこないと言えばいいのかもしれない。
 池田の詩に戻ろう。最終行の「右 と 左」。こう書くとき「いる」「いない」は「右」か「左」か区別がつかない。つまり、どちらが池田で、どちらが「あなた」かわからない。わからなくもいい。区別がなくてもいい。「一体」(ひとつ)になっているから、そういうことは区別しないのである。「右 と 左」と書いたとき、池田は「あなた」を失った池田ではなく、もう一度「あなた」と一緒に生きている池田に生まれ変わっている。そういう「現実」が、そこにある。
 「現実」を表現するのは、「霊気」というような抽象的なことばでは弱すぎる。「説明」になってしまう。「霊気」ではなく「冷気」、あるいは「光」「色」というようなことばに書き換えるだけでも、詩の世界は「現実」としてあらわれてくると思う。「霊気」が「現実」を「意味」にしてしまっているように思う。









*

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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(29)

2020-02-16 13:56:27 | 『嵯峨信之全詩集』を読む


箴言

なにかを疑うということは
泥沼の遠い道でゆき暮れることではないか

 という二行は、こう言い直される。

あるいは
大きな机の前でひどく思案に余ることではないか

 「言い直し」と書いたが似ているのか、「あるいは」ということばに導かれるように反対のこと(似ていないもの)が書かれているのか。
 いくつかの言い直しのなかで「遠い」と「ひどく」は「苦しさ」という共通項を持っている。客観的な「距離」が、肉体的な「実感」で言い直されていると思う。










*

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なぜ、皇室問題?

2020-02-16 09:04:00 | 自民党憲法改正草案を読む
なぜ、皇室問題?
             自民党憲法改正草案を読む/番外312(情報の読み方)

 2020年02月16日の読売新聞(西部版・14版)を見て(読む前に)、驚いてしまった。一面のトップ(見出し)は、

女性・女系天皇 議論せず/政府方針 皇位継承順位 維持/立皇嗣の礼後に確認

 二番手のニュースが「新型肺炎」。「和歌山 院内感染か」と報じている。
 日本中が「新型肺炎」を気にしているのに、なぜ「天皇問題」なのか。
 どうみても、ここには、安倍擁護の姿勢が見える。新型肺炎患者は急増している。そのひとつの理由に、医療機関が診察を拒否したという問題がある。発熱、咳の症状で医療機関へ行っても、「中国への渡航歴がない」「中国人との接触がない」と新型肺炎かどうか検査しない(検査対象外だと告げられる)ということが、すでにいろいろなところで語られている。検査しないことで、患者と認定しないという方法を、安倍政権は、これまでとってきた。検査に必要なものがそろわない、金がかかるなどを理由に。しかし、医療関係者からは、検査はすぐにできる。体制はすぐに整う、という声も出ている。ようするに、安倍は、新型肺炎問題を「隠蔽」したかっただけなのだ。検査をしないでほうっておけば、そのうちに患者数は減る、と考えていたのだろう。横浜のクルーズ船が、その典型である。即座に全員を検査して、安全な場所で発症しないかどうかを確認すればいいのに、船内に閉じこめておいた。そうすることで、日本国内の感染者数(見かけ)をおさえようとした。(クルーズ船内の感染者数は、日本国内の数にはカウントしない、というめちゃくちゃな「手法」さえ取り入れている。数えなければ、存在しないというわけではないのに、である。)その「クルーズ船」の状態が全国に広がっている。それを明るみに出したのが「屋形船」というのは、なんとも皮肉である。密閉ではなく、開放された船であっても、人の接触(しかも短期間)によって新型コロナウィルスによる感染は起きている。密閉されたクルーズ船内なら、感染拡大はもっと激しいだろう。感染者がいる、ということを「隠蔽」したのが間違いのはじまりだ。
 検査を実施すればするほど、感染者数は増えてくる。きっと月曜日には、患者数は急増するだろう。ただ数えてこなかっただけなのだ。数えさせることを拒否してきただけなのだ。死者が出たから、もう、そういう隠蔽工作はできなくなった。そのために安倍は大慌てしている。
 安倍以上に、国民は、もっと慌てている。困惑している。どうしていいか、わからないでいる。

 脱線したが。
 今回の「天皇問題」も、新型肝炎対策から目をそらすための「隠蔽工作(誘導作戦)」のひとつだろう。だいたい「政府方針」というのだから、正式発表でもなんでもない。きょうニュースにする必要はない。そんなことを、わざわざ一面のトップで報道する必要はない。いまの天皇は即位したばかり。後継者に不安があるわけではない。秋篠、悠仁と、天皇がつづいていくこと、天皇制が「維持」されていくことに対する疑問(心配)が表面化しているわけではない。
 傑作なのは、つぎの部分だ。

性別に関わらず天皇の直系子孫を優先した場合、皇室継承順位は①愛子さま②秋篠宮さま③真子さま④佳子さま⑤悠仁さま⑥常陸宮さま--の順になる。秋篠宮さまの皇嗣としての地位見直しにつながるだけでなく、悠仁さまが天皇につけない可能性も出てくる。そうなれば、「皇室の安定性を損ないかねない」(政府関係者)と判断した。

 「皇室の安定性」とは、何か。悠仁が天皇になることが「皇室の安定性」か。それは「皇室の安定性」ではなく「男系天皇制の維持」にすぎない。言い換えると、何としても「男尊女卑」をつらぬきたい、悠仁を天皇にしたいということにすぎない。
 で、「悠仁を天皇にしたい」ということについてなら、これは、平成の天皇の「強制生前退位」の時からもくろまれていたことである。悠仁天皇を誕生させ、その誕生を推進した人間として権力をふるいつづけることをもくろんでいる人間がいる。もちろん、安倍のことである。悠仁天皇を誕生させ、あやつることで、絶対権力を手に入れようとするもくろみである。
 「政府関係者」という「新聞用語」は安倍を指すものではないと考えるのが一般的だろうが、安倍以外のだれが、いま、この時期に「皇室の安定性」を語る必要があるだろう。みんな天皇制(皇室)のことなんか、気にしていない。自分が病気になったらどうしようしか考えない。桜を見る会も、森友も加計も、IR汚職も、もろもろの「隠蔽工作」も関係ない。自分の命が心配。そして、国のトップが一番心配しなければならないのは、国民の命だろう。
 国民の命ということを考えるならば。
 なぜ、いままで、新型肺炎問題を放置してきたのだ。なぜ、検査体制の確立を急がなかったのか。責任者はだれだ。安倍に決まっている。そういう方向へ、国民の目が向かうのをそらすための記事としか思えない。

 ほんとうに聞きたい。
 だれが、天皇制(皇位継承順位)を、いま、気にしているだろうか。天皇だって、そんなことを考えてはいないだろう。




#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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川越宗一『熱源』

2020-02-16 00:03:42 | その他(音楽、小説etc)


川越宗一『熱源』(文藝春秋社、2019年08月30日発行、2020年01月25日第5刷)

 川越宗一『熱源』は第百六十二回直木賞受賞作。芥川賞の古川真人「背高泡立草」にがっかりしたので、こちらはどうかと読んでみた。新聞などで読んだ「選評」は好意的だったし、少数民族 (マイノリティー) と「ことば」を題材にしていることにも引きつけられた。テーマが「現代的」である。
 しかし読み進むうちに、テーマの「現代性」よりも、いま、「文学」はすべて「村上春樹化」しているのかという印象だけが強くなってくるのだった。読みやすいが、その読みやすさゆえに、なんだかがっかりしてしまう。「現代性」(現実)って、こんなにわかりやすくっていいのか。(現実といっても「舞台」は2020年ではないが。)
 古川真人「背高泡立草」の文体が「昭和の文体」なら、川越は「村上春樹以降の文体」とでも言えばいいのだろうか。

  240ページ、小説のなかほどに、こういう文章がある。唇の周囲に入れ墨を入れた妻(チュフサンマ)に対して、夫のブロニスワフが驚く。妻はアイヌの習慣に従ったのだ。その習慣を夫は好きになれない。しかし、こう思う。

自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。

 「自分がだれであるかを、自分自身で決定する」というのが、この小説のテーマであり、「自分がだれであるかを決定する」もののひとつが「ことば」である。妻は、「ことば」ではなく「肉体」そのもので「自分がだれであるかを決定した」という点では、同じテーマを支えていることになる。伏線というと少し違うが、「本流」を決定づける「支流」のひとつといえる。
 こういう「わかりやすい支流」がつぎつぎにあらわれて、作品全体を「本流」へむけて動かしていく。小説には複数の登場人物があらわれ、そのひとりひとりの動きが「支流」のように集まってくる。「本流」が見えたとき、では、それは「だれの流れ」なのかということが、実は特定できない。それは自然の川の流れと同じである。どの「支流」が欠けても「本流」の形は変わってしまう。
 そういう点から見ると、文句のつけようがない。「完璧」に構成された作品である。

 それはそれで、よくわかるのだが。私には、とても物足りない。
 
自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。

 ここに書かれている「何よりも」とは「何」? それがわからない。「何」は特定できないと言われればそうなのだろうが、その「ことば」にならない「何」をことばにしないかぎり「文学」とは言えないのではないだろうか。
 その前の部部から引用し直そう。

「入墨、入れたのか」
「わたしは、アイヌだから」
 チュフサンマの言葉は言い訳ではなく、決意に思えた。
「やっぱり、嫌?」
「いや」と答えた震えているのは、自分でもわかった。
「きれいだ。きみは、美しい」
 正直なところは、好きになれない。嫌悪はまったくないが、慣れない料理のような感覚がある。だが、自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。

 「好きになれない」「慣れない料理のような感覚」であるけれど、それを否定していくだけの「美しさ」がある。「決意」の美しさである。そういう「意味」はわかるが、それはあくまでも「意味」である。「頭」で理解する「美しさ」である。
 ひとが「何よりも」というときは、もっと「生理的」なのものであると、私は思う。「頭」ではなく「肉体」の反応だと思う。その、「肉体」の反応が欠けていると思う。
 「慣れていない料理」ということばがあるが、「慣れていない」けれど、口にした瞬間に吐き出したいと思ったけれど、吐き出せない。舌にひろがり、のどに流れ込んだ何かが意識を裏切るように「料理」をむさぼる。そういう感覚があるとき、それを「おいしい(美しい)」と言うのだと思う。自分の信じていたものが叩き壊され、自分が自分でなくなってしまう。そういうときが「何よりも」というときではないのか。
 別なことばでいうと「敗北感」がない。あ、私は妻に負けてしまったというような敗北感(妻は自分が自分であるということを決定することができるのに、自分はできない。自分にできないことを妻がやってしまったという敗北感)が具体的に書かれないかぎり「何より」という「感覚」は生まれない。そういうものを書かずに「何より」ということばで処理してしまっている。そこが、つまらない。

 たいへんな情報量があり、それがとても巧みに処理されている。それは理解できるが、どこまで読んでも「わくわく」しない。登場人物の「肉体」に出会った感じがしない。ストーリーを読んでいるという気持ちにしかなれない。手応えがない。つまずかない。ことばが「ストーリー」に従事しすぎている。
 私は欲張りな読者なのかもしれないが、この登場人物はどうしてこんなことを考え、こんな行動をするのか、わからない。わからないけれど、あ、それをやってみたいと思うことを読みたい。「わからない」が噴出して来ない文章はおもしろくない。
 こう書くと「何より」がわからないと書いているじゃないかと言われるかもしれないが、川越の書いている「何より」は「存在しない何より」である。つまり、

自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、美しいと思った。

 に過ぎないのに、それをむりやり強調して、価値のあるもののようにみせかけている。いま書き直したように「何より」がなくても「意味」が通じる文章なのだ。言い換えると「何より」は「頭」でつくりだした「強調」であって、具体的な「何か」(言葉にならない何か)ではないということだ。
 これでは文学ではない。巧みな「粗筋(ストーリー)」なのだ。下書きなのだ。この下書きを破壊して噴出する「だれも書かなかった肉体としてのことば(詩)」が暴れ回るとき、それは文学が生まれるのだ。



(補足)
 なぜ「自分がだれであるかを決定した妻のふるまいは、何よりも美しいと思った。」の一行にこだわるか。それは、「自分がだれであるかを決定する」というのが、この作品のテーマであるからだ。「自分のことば」「自分の文化」を自分で選び取る。引き継ぐ。そういう一番大事なことを象徴的に語る部分に「何より」という「強調の慣用句」が無意識につかわれている。この小説が非常に読みやすいのは「文体」が鍛えられているというよりも、「文体」が「慣用句」によって推進力を得ているからである。
 「慣用句」が悪いというわけではないが、文学の「文体」は、読者をつまずかせるものでないといけない。立ち止まり、考える。考えることで登場人物と一体になることが文学の醍醐味なのだ。あるいは逆に、登場人物の「ことば」のスピードにひっぱられて予想外のところまではみだしてしまう。予想外の所へ行ってしまう、という一体感が文学なのだ。つまり、完全な「孤」になる一瞬にこそ、文学がある。
 その完全な「弧」を、しかもテーマに重なる大事な部分の「孤」を、「慣用句」で処理してしまっては「味気ない」としか言えない。












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