詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(17)

2020-02-04 22:30:34 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

カンガルウ

遠い遠い 気も遠くなるように遠い
カンガルウの故郷のふしぎな曲がりくねつた木々を その影を
カンガルウは妙な木々に何を習つたのか

 カンガルーの奇妙な形と「曲がりくねつた木々」「その影」に結びつけている。この「接続」に妙に引きつけられる。どうして、そういうものが結びつくのか。簡単に想像することはできない。「意味」が見つからない。だからこそ、そこに嵯峨を感じる。嵯峨はほんとうのことを書いている。しかも頭で考えたのではなく、実際にカンガルーを見たときに感じた、その「未整理」をそのままにさらけだしている「ほんとう」を感じる。
 「遠い」が繰り返されているが、この「遠い」はインスピレーションと同じように、「遠い」のだけれど、あらわれた瞬間に「最接近」するなにか、「最接近」するどころか、「肉体」をつらぬいてしまう不思議な「距離」をあらわしている。
 「習う」という動詞も不思議だ。カンガルーの影が曲がった木の影に似ているとしたら、それはカンガルーが木から何かを「習った」ためなのか。この「習う」も、瞬間的に嵯峨を襲ったことば(インスピレーション)なのだと思う。










*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
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カニエ・ナハ「EP」

2020-02-04 09:59:31 | 詩(雑誌・同人誌)
カニエ・ナハ「EP」(「現代詩手帖」2020年02月号)

 詩の感想をめぐって山本育夫とメールで少しやりとりをした。そのとき思い出したのが、月二回開いている朝日カルチャーセンターでの講座のこと。谷川俊太郎の詩を読み感想を語り合う。受講生の書いた詩を読み、感想を語り合う。そのときの受講生の感想が、どうしても「要約」になりがちである。詩の全体の印象を語ろうとしてしまう。私は、それでは「意味」(ストーリー)への批評になってしまうのでおもしろくないなあと感じる。そこで、いろいろとチャチャを入れて、「意味」ではないこと、そこに書かれていることばが生まれてくる瞬間へと受講生を追い込んでゆく。と、書くと大げさだけれど、簡単に言い直すと「全体」を無視して、ある一行、あることばをどう感じたかから語り始めるようにする。
 人と出会ったとき、印象(評価?)というのは、たぶん、そういうふうにして始まる。その人の「全体」などわからない。目に見えるものだけを手がかりに会話する。好きになったり、嫌いになったり、つまらなくなったり。そのひとの「全体」がわかるのは、ずっーと先のことだ。
 詩も同じ。
 どんな短い詩でも、その「全体」がわかるのは、ずーっと先。何度でもすれちがって、そのたびに印象が変わる。印象が変わったときにはじめて「全体」がわかる。だから最初から「全体」の印象をまとめたりしてはいけない。思いついたことを思いついたまま、ととのえないままに語る。語り合っているうちに自分の思っていたことが少しずつかわる。別なことばが動き始める。そのときはじめて「全体」というものが見えてくる。言い換えると、自分がかわっていく、自分が自分でなくなっていくということが「全体」がわかるということなのだ。
 私は、これを繰り返す。
 最初に思ったことを書く。「結論」を考えずに、ただどこまで「思うことができるか」だけを考える。そのうちに書いていることが間違っていると気づく。気づいたところから少しずつ訂正していく。そのとき浮かび上がってくる「間違いの奇跡」のようなものが、なんとなく「全体」に近づく。「全体」への接近の仕方がわかる、ということかもしれない。
 まあ、単なる「誤読」なんだけれど、私は「誤読」をそのままことばにして残しておくのが好きなのだ。

 さて。
 カニエ・ナハ「EP」は、どう読むことができるか。まずタイトルが何のことかわからない。ほっておく。詩は横書きと縦書きが組み合わされている。さらに横書きの方は、どうやら行の配置にも工夫をこらしているらしい。これは引用するときに、めんどうくさい。冊子にするときは全部縦書き、ブログに書くときは全部横書きにしてしまう。レイアウトは無視してしまう。(引用は縦書き横書きを無視して引用している。配置も無視している、と註釈はつけるが。)この「視覚」への刺戟は、肉体のどこかに残ったまま、感想に反映してくると思うけれど、それは書いているときは明確には自覚できない。だから、まあ、そういうことを無視するしかないのだ。
 詩は「彫刻」(横書き)「演劇」(縦書き)「演劇」(縦書き)「彫刻」(横書き)という四つの作品で構成されている。ここにも「意味」があるのだろうけれど、「意味」があると想像したとしか、私は書かない。
 最初の「彫刻」。その最初の連。

彼女はずっと花嫁で、
となりに座って、
気づいたとき、
約束された時間をとうに過ぎて、

 何が書いてあるか「意味」(ストーリー)がわからない。けれど「EP」と違って、知らないことばというものは、ない。ひとつずつ(一行ずつ)は、「わかる」。「わかる」と勘違いする。
 全体(ストーリー)はわからないが、そこに「花嫁」がいること、「約束の時間が過ぎた」ことが部分として「わかる」。「意味」が半分(?)引き剥がされて、無意味に近い形で「もの」が存在している。「意味(ストーリー)」に属さないものが、ここに提出されている。
 ここに書かれている「花嫁」は一般的な「花嫁」ではない。もちろん「一般的な花嫁」というものは現実世界には存在せず、それぞれ「ひとりの、個別の花嫁」という具体的な人間がいるのだけれど、私たちは花嫁姿の人を見れば「花嫁」という「意味」で納得する。「個別の花嫁」ではなく「一般的な花嫁」という「意味」でその人を見ていることになる。
 この詩では、その「一般的な花嫁」が、「意味」を半分引き剥がされて、「花嫁」なのに「花嫁」でなくなっている。「彼女」になっている。それも、なんといえばいいのか、この詩に書かれている「この」彼女なのである。「花嫁」という「意味」を剥がされ、「花嫁」という具体的なものになりきれないままの、「この、半分の花嫁、としての彼女」。
 奇妙な言い方だが、この不完全さ。わかる部分があるのに、わからないとしか言えない不完全さとしての具体性。
 これがカニエのことばの「力」(存在感)になっている。「意味」を引き剥がされても存在する何かがある。「意味」にならないまま存在することができるものがある。それに気づき、それをことばにしようとする「意識」が動いている。でも、その「意識」を書くのではなく、あくまでも、そこに存在する「半分(不完全)」がもつ「力」をカニエは書こうとしているのだと私は思い始める。
 詩のつづき。

もう誰もいないと、人の悲惨を見て、
もっとも難しい、
かくれんぼをしている

 これは何なのだろう。「誰もいない」は「花嫁」はいるが、「花婿」あるいは新しい「人間関係」をつくるはずの関係者がいないということか。花嫁は「半分」どころか、十分の一くらいの「意味存在(存在意味)」である、そういうふうに「存在価値」が低くなったことを「悲惨」と呼ぶのか。そういう思いを隠す(かくれんぼする)ことは難しいと言っているのか。
 わからないねえ。
 「全体」(意味としてのストーリー/ストーリーとしての意味)はわからないのだけれど、「誰もいない」「悲惨」「難しい」「かくれんぼ」は、ことばとしてわかる。そのどれもが、やっぱり「意味」を半分以上引き剥がされている。意味の全部を引き剥がされて、「無意味」として存在している。「無意味」なのに「意味」があったことを「記憶」として提示するように、そこに存在している、ということがわかる。
 わからない。わからないことが「わかる」ものをとおして書かれているのか、それともわかることが「わからない」ものをとおして書かれているのか。ことばになっているのか。
 こういう「不完全さ」を支えるために(あるいは、さらに不完全にしてしまうために)「演劇」という詩が向き合わされるのだろう。

見上げているうちに倒れる
今までのほとんどすべてがここにあり、
2つ穴の開いた円筒形の器である、
私たちを土に戻すと

落ち込んでも悲しくも もうない
入れられないものは何でも入れることができる、
役立たないことばが辿る道を辿って
蓋を置き、

文字化されない難民が、
そこにあるすべての音をまとめて
地球を離れる という物語の

テーブルを共有する私たちが、
考えられるあらゆる方法で
過度に絡み合っている

 やっぱり何が書いてあるか「全体(ストーリー)」はわからない。わからないから、テキトウにでっちあげることもできる。食べ物を入れる口、食べたものを吐き出す肛門、2つの穴(あるいは穴を結ぶ長い管)としての人間はやがて死んでしまえば土に帰る。難民も難民ではない豊かな(?)人間もおなじだ。そういう人間が生きているというストーリーを難民は超越して(地球を超えて)、まったく新しい「ことば=物語」になる、ということを暗示している--と「要約」すると、それなりに、そんな感じになるでしょ? だから「要約(結論)」は危険であり、そういうものは叩き壊さないといけない。叩き壊すために、私は、あえて、そう書いたのだ。
 で、これを、どう壊すか。
 私は最初「花嫁」に触れて、「意味」が半分引き剥がされていると書いた。「一般的意味」を引き剥がされることで、抽象なのに「具体」に接近している、つまり「この花嫁」の「この」というものになろうとしていると感じたのだが。
 カニエは「この花嫁」の「この」へ向かうことばのベクトルを「演劇」のなかでは反転させているように感じられる。「この」へ向かうベクトルというのは、もうそれだけで抽象的なのだが、それを反転させて「奪われた意味」の方向へ虚構化する(演劇化)する。つまり「虚構でしか描けないもの(運動)」そのものをさらに純粋化させる。
 「花嫁」が「意味」を奪われることで「具体化」(個別化)の方に向かうの対し、それを反転させ「奪われた意味」のなかの「意味の純粋さ(個別に汚されていないもの、個別に限定されていないもの)」をさらに「意味化」してしまう。「意味の意味」、つまり「ほんとうの意味」、いいなおすと「具体」ではなく「本質」の方向へことばを動かそうとしている。具体化を捨てることで、「意味」を純粋に結晶させようとしている。
 そんなものは現実には見えない(肉眼では見えない)と言えばそれまでだが、ことばの運動の中でなら(たとえば「演劇」という究極のことばの運動の中でなら)、それを「肉体か」できる。
 考えてみれば、ことばをつかうということは、いつでも「具体」と「本質」のあいだを往復することである。「具体」を意味と呼んだり、「本質」を意味と呼んだり、そのときどきでテキトウに往復するのが、私たちの「言語生活」というものかもしれない。
 カニエはそういうことを、「美」に昇華させるようにして書いている。
 「美に昇華させる」というのは、急に私の頭の中に浮かんだ、まあ、いいかげんな思いつきのことばだが、カニエのことばには「不定形のなま」な感じがない。鍛えられたフォルムの美しさがある。だから、つい、そう書いてしまったのだ。

 何を書いたか。何を書かなかったか。
 ちょっとわからなくなったが、わからないままに、きょうの感想をおわる。










*

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