詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

最果タヒ「商業主義」

2020-02-01 17:28:10 | 詩(雑誌・同人誌)
最果タヒ「商業主義」(「現代詩手帖」2020年02月号)

 「現代詩手帖」2020年02月号の表紙には「特集 現代詩最前線2020」と書かれている。その多くのことばについていけない。わくわくしない。私が年をとってしまったからだろう。そうだとしたら、これから感想を書く最果タヒ「商業主義」の作品は、もう「最前線」ではないということになるのか、あるいは私が最果のことばを完全に「誤読」していることになるのか。どちらかわからないが、感想を書いてみたいと思った数少ない作品のひとつである。

暗闇の中で流れていく川の水は掌のよう。怒りがすべて
声に昇華されていく乾燥した冬の、私たちが履いている
ブーツが春の代わりに足音を立てている。こきまま誰も
いないまま、この街が廃れてくれたなら私たちは永遠に
ここに暮らすつもりだったんだ。約束ができないまま、
笑っている、持ってきた商品はどれも売れやしなかった
けれど、あなたはどうして幸福なのかって、精神論を持
ち出さないで答えてほしい。私の心に、銀細工の湧く泉
を見つけたからって、答えてほしかった。美しく磨かれ
た美術品、貧乏になった美術館から火事になる。潔癖な
人が言ったおとぎ話を信じて早死にしたあの子は、天国
などないのに天国で笑っていて、要するに迷子になって
しまった。あなたが見ている美しい夕焼けは、241円の価
値があるの。わあ、値段が素数だね!美しいって言えよ。

 ことばは接続しているのか、切断しているのか。動くたびに、壊れたガラスが、さらに踏みにじられるときのような悲鳴を立て、それが光の乱反射を引き起こす。光の乱反射といっても、それは踏みにじる靴の下に起きる現象ではなく、ガラスを踏みにじるときの肉体のなかで起きる事柄である。
 「肉体」を「暗闇」と言い直せば(つまり、閉ざされた個人の内部と言い直せば)、それはそのまま書き出しのことばになる。「川」は壊れ、踏みにじられるガラス。「掌」は光の乱反射。そっと掌を広げるときに見える「肉体の内部」。握りしめることで、いつでも隠すことのできる私の宝物。
 知ってもらいたい、でも隠しておきたい。そういう「秘密」の矛盾。
 「怒り」が暗闇だとしても、その「声」は「川の水」のように、自らの力で輝く。これを「昇華」と呼ぶ、と言い直せば、それは私がいかに「古い人間」であるかを明らかにするだけだが。つまり「誤読」のあり方が「古い」証拠になるだけだが……。
 私が不思議に思うのは。
 たとえば、「あなたはどうして幸福なのかって、精神論を持ち出さないで答えてほしい。私の心に、銀細工の湧く泉を見つけたからって、答えてほしかった」と書くときの「銀細工の泉」という比喩。「精神論」ということばとの衝突。これを私は「美しい」と思うが、最果の読者(若い人)はどう思っているのだろうか、ということ。
 あるいは「あなたが見ている美しい夕焼けは、 241円の価値があるの。わあ、値段が素数だね!美しいって言えよ」ということばの衝突、「美しい」と「夕焼け」と「素数」の、すべてが互いの「比喩」になるようなスピード感を、最果の読者(若い人)はどう思っているのだろうか、ということ。
 今月号で書いている詩人で言えば、暁方ミセイのことばにも、こういう硬質なことばの衝突が生み出すスパークのようなものがあるが(私は、それに関心があるのだが)、こういうことばの運動を、若い読者はどう感じているのか、妙に気にかかる。
 私はここに書かれている「比喩(接続と切断)」を美しいと感じるが、同時に、それを美しいと感じるのはそれが「未知」のものではなく、どちらかというと「既知」のものであるからだ。私は知らないものを(知らないこと)を理解できない。「銀細工」も「素数」も知っている。知っているといっても、完全な理解ではないし、いつも思い出すものでもない。ことばを読んだときに、「あ、知っている」という形で「銀細工」「素数」が私の肉体のなかから「生み出しなおされる」という感じで存在しているものだ。
 で、この「知っている」、けれど普段は「忘れている」ものが、古いものとしてではなく、新しい存在として最果のことばをとおして「生み出しなおされる」、その瞬間に、私は詩を感じるのだが、詩はここにある、と感じるのだが。
 この感じというのは、はたして、誰かと「共有」しているものなのか。私だけの感じなのか。もちろん私だけの感じでかまわない、「誤読」であってかまわないし、私はそういう「誤読」だけを書きたいのだが、今月号に載っている多くのは「誤読」の手がかりさえもみえないので、うーん、とうなってしまうのだ。妙な疑問を抱えながら感想を書いてしまうのだ。







*

評論『池澤夏樹訳「カヴァフィス全詩」を読む』を一冊にまとめました。314ページ、2500円。(送料別)
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168076093


「詩はどこにあるか」2019年12月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168077806
(バックナンバーについては、谷内までお問い合わせください。)

オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料別)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料別)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『高橋睦郎「つい昨日のこと」を読む』314ページ。2500円(送料別)
2018年の話題の詩集の全編を批評しています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074804


(4)評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』190ページ。2000円(送料別)
『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455

(5)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料別)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977





問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(14)

2020-02-01 10:00:36 | 『嵯峨信之全詩集』を読む

偶成二篇

運命の前にあるはずの時が
空をもとめて遠くいづこかへ去つていつたのだ

 抽象的な二行だ。
 「空」には「くう」とルビがふってある。「運命」は「運命」ではなく、強い願いだろう。そうあることを強く願っている、けれどその願いを裏切るように「時」は遠くへ去って行った。このときの「時」は叶わぬ願いであり、期待した「運命」だといえる。つまり、「運命」と「時」を、嵯峨は、わざと入れ替えて書いている。
 この瞬間、あるべきはずの運命が遠くさって行った。運命に裏切られた。
 しかし、そんなふうに自分の思いのままにならないものこそ「運命」かもしれない。

むかいあつて立つている二人は何だろう
それぞれは何処からいつここへ来たのか







*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする