詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

コロナ対策での安倍の「手柄」

2020-02-24 21:46:05 | 自民党憲法改正草案を読む
コロナ対策での安倍の「手柄」
             自民党憲法改正草案を読む/番外314(情報の読み方)

 新型コロナウィルス対策で、安倍は大失敗をした。クルーズ船での感染拡大を防止できなかった。船内を厳しく区分けし、管理することを怠って、感染を拡大させた。さらに、医療関係者が検査は万人単位ですぐにできると言っているのに「一日 800人しか検査できない(その後、数字を増やしたが)」と主張して、検査もしなかった。調査のために乗船した官僚の検査も怠った。
 このためクルーズ船は、「水際での防止作戦」ではなく、全世界が注目するなかでの「感染拡大実験室」になってしまった。

 大失態である。

 しかし、それが安倍の唯一の「手柄」である。
①新型コロナウィルスは感染力が強く、密室では、あっという間に感染する。
②感染者と非感染者をすばやく分離しないと、感染をとめることができない。
③検査したときに陰性であっても、感染者と接触する機会があれば、すぐに陽性にかわりうる。(感染することがある。)
 こういうことを、日本だけではなく、全世界に知らせることができた。
 安倍でなければ、こういうことは、できない。

 きっと、中国・武漢の感染者が減れば、それで今回の問題は解決する、と全世界が誤解しただろう。
 中国が問題を解決したとしても、日本が中国以上の感染源になっている。そして、どこの国でも新たな感染源になりうるということを知らせた。

 少しでも感染症の危険性を知っていれば、クルーズ船での対応をきちんとおこない、感染者が日々増加するということはなかっただろう。そして、その危険性を世界が知ることもなかっただろう。
 安倍批判は安倍批判として、この「負の手柄」は、どれだけ強調しても強調しすぎるということはないだろう。 



#安倍を許さない #憲法改正 #天皇退位 
 


*

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テレンス・マリック監督「名もなき生涯」(★★)

2020-02-24 18:15:29 | 映画
テレンス・マリック監督「名もなき生涯」(★★)

監督 テレンス・マリック 出演 アウグスト・ディール、バレリー・パフナー

 テレンス・マリックの映像は美しいと評判である。この映画も確かに美しい。しかし、困ったことにその美しさは、私の「頭」が感じる美しさであって、「本能」というか「欲望」が感じる美しさではない。簡単に言い直すと、この映像の真似してみたい(絵に描いてみたい、ことばに置き換えてみたい)という欲望が起きない。その場所へ行ってみたいとも思わない。さらに言い換えると、この映像を「美しく」撮っているひとの気持ちがわからない。こんな美しい映像を撮る人に会ってみたいという気持ちにはぜんぜんなれないのだ。
 なぜなんだろう。
 今回の映画には、その「わからなさ」へ近づくための手がかりのようなものがあった。主人公が兵役を拒否した。それでも召集令状(?)は届く。そして主人公へ出征する。ひとりになった女が「あなたに私がみえるの?」と語るシーンがある。主人公も独房で「あなた」と呼びかける。そのあと「父」とも呼びかける。ここで、はじめて私は「あなた」がだれだかわかった。「神」なのだ。
 おそろしいことに。(というと、たぶん叱られるかもしれないが。)
 私の席の隣(新型コロナウィルスを警戒してなのか、たいていひとつ空席をおいて座っているので、ほんとうは二つとなりの席)の女性が、主人公が「神」に語りかけることばを、英語そのままで反復していた。それで、ますます、主人公やその妻が語りかけている相手が「神」なのだと確信した。
 で、こう思ったのである。
 テレンス・マリックが描き出しているのは人間の視線で見た「情景」ではなく、「神」が見た「世界」なのだ。テレンス・マリックが、「神」が見ている世界と想定した世界という方が正確なのだろうけれど、いずれにしろ「人間」が見た「世界」ではないのだ。
 これでは、私が共感できるわけがない。私は「神」を信じていない。「神」を信じていないのに、「神が見た世界」を見せつけられても、これは確かに美しい映像だけれど、それがどうした?としか言いようがない。
 しかも、である。
 この映画は、一方で兵役を拒否する(ヒトラーに従うことを拒否する)主人公が、「村八分」にされることを描いている。とても人間臭いのである。一方で、孤独な「神」への誓いのようなものがあり、他方で「神聖」とはほど遠い俗な人間関係がある。なまなましい「人間ドラマ」(人間動詞の葛藤)がある。それなのに、その「人間ドラマ」は、「神」の視線でとらえられているためか、「情念」のようなものがつたわってこない。怒りや憎しみが感じられない。「試練」のように描かれるのである。
 これがまたまた、私には、ぴんと来ない。「試練」を描いていることはわかるが、「試練」にしてしまうと、「人間ドラマ」が「人間対人間」ではなく、「人間対信念(?)」のようなものにすりかわってしまい、まるで「倫理の教科書」みたいと感じるのである。私は、こういうのは苦手だ。
 「神」のかわりに、村で暮らす女の方には、小麦粉の量をそっと増やしてくれる水車小屋の男がいたり、こわれた台引き車のまわりにちらばったじゃがいもを集めてくれる女がいたりする。一方で、女は、彼女より貧しい老婆にとれたばかりの蕪をわけたりするという、「人に隠れておこなう善行」のようなものが描かれる。主人公の方は、冷酷に「死」と向き合いながら、それでも思っていることを貫く姿が描かれる。
 その「試練」がふたりをどう育てたのか。
 私にはわからないが、そういう「試練」を生きる人がいて、いまの世界が支えられているというような「メッセージ」を監督はつたえようとしているようだが、それが「神の見ている世界」なら、いやだなあ。キリスト教徒ではなくてよかったなあ、と私などは思ってしまう。「信念」を生きる姿は立派だが、そういう人がいるから「いまの世界がある」と言われて、それでキリスト教徒は納得するのだろうか。次代のひとのために信念を生きる「名もなき生涯」を選び取るのだろうか。「信念を生きることで、社会がどうかわるのか」と、「神」ではなく、生きている人間から問われつづけるという、それこそ「この世の試練」ともいうべきものが何度も描かれるのを見ると、「偉いなあ」と思わず声が漏れる。
 でも、これが「道徳の教科書」になってもらっては困るなあ、と私は思ってしまう。
 ヒトラーのどこに問題があったかを、もっと描いてもらいたい。テーマが違うといわれれば、そうなのだけれど。

(中州大洋スクリーン2、2020年02月24日)
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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(37)

2020-02-24 10:07:52 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (どこまでも時の端を求めて歩いていつた)

気がついたら
そこはぼくの心のゆきどまりだつた

 「時の端」は「時のゆきどまり」だろう。それから先がないのが「端」なのだから。そうすると、「心」は「時」ということになる。ただその「心」には「ぼくの」という限定がついている。ここから引き返して、「時の端」を「ぼくの時の端」と読み直してみる。客観的な、あるいは一般的な「時」ではなく「ぼくの」時の端を求めている。しかし、「ぼくの時の端」では、自己主張が強引すぎる。「時」に「ぼくの」という限定をすることは、ふつうはしない。「ぼくの心」という言い方は一般的である。この違いを、嵯峨は、巧みに利用している。
 「気がついたら/そこは心のゆきどまりだつた」であったとしても、大筋で「意味」は変わらないのだが、「ぼくの」という限定をつけずにはいられない瞬間が、ある。同様に「ぼくの」という限定をつけたい「時(の端)」があるのだということを嵯峨は静かに語っている。




*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
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