詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(28)

2020-02-15 10:52:03 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
生きるということ

 生きるということは「一回かぎり」と書いたあとで、こんなふうに行を展開する。

ぼくは素直に生きようと思う
空気の教え 水の諭し 光りの導きによって

 「光り」が登場するから明るい印象がある。しかし、そのすぐあとに

ああ 人間は自己の影を越えて先きへ進むことはできない

 という一行がある。「光り」と「影」が交錯する。「生きる」ということは、相反するものの交錯を生きることか。
 晩年の作品だが、矛盾のなかに青春を感じる。









*

詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
『誤読』販売のページ
定価の下の「注文して製本する」のボタンを押すと購入の手続きが始まります。
私あてにメール(yachisyuso@gmail.com)でも受け付けています。(その場合は多少時間がかかります)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「新型肺炎」の情報(その2)

2020-02-15 08:16:07 | 自民党憲法改正草案を読む


 2020年02月15日の読売新聞(西部版・14版)一面。「国内感染拡大/新型肺炎 1月から発生か/政府、上昇か防止に重点」という見出し。その記事のなかで、菅官房長官はこう言っている。

「現時点において、『流行している』と判断するに足る疫学的情報が集まっているわけではない」

 これは逆に読むべきである。政府が「疫学的情報を集めようとしなかった」、あるいは「疫学的情報を過小評価している」。つまり「情報捜査(ごまかし)」をしている。
 きのう私は神奈川の死亡女性と都内の感染者(タクシー運転手)が「親族」であるという「情報(見出し)」はミスリードにつながるのではないか、和歌山の感染医師が「外科医」であることを隠した「情報(見出し)」はミスリードにつながるのではないか、と指摘した。感染ルートは「親族」、あるいは「医師と患者」という密接な関係以外にあるのではないかと指摘した。
 そしてきょうの一面を読むと、その疑いがさらに濃厚になる。「6都道県 新たに7人」という3段見出しにつづく記事のひとつに、横浜の救急隊員の記事がある。「(クルーズ)船の感染者搬送」という見出しがついている。しかし、本文にはこう書いてある。

男性は横浜市消防局の救急隊員で、10日午後3時から約40分間、(略)感染者を病院に搬送する仕事をしていた。搬送時はゴーグルとマスクを着用していたという。10日夜に発熱し、14日に医療機関を受診。検査で陽性と判明した。/同省(厚生労働省)は「発熱までの時間が短いので、搬送時に感染したとは考えにくい」としている。

 このニュースも重要な部分は「船の感染者を搬送した横浜の救急隊員が感染した」ではない。見出しにはとられていない後半の部分が重要だ。「搬送時に感染したとは考えにくい」、つまり、それ以前に、他のルートで感染していた可能性が高い。
 一方、読売新聞の記事は、都内のタクシー運転手は「都内の屋形船」での新年会で感染した可能性について報じている。そして、タクシー組合の従業員と、新年会会場の屋形船の従業員も感染していることが判明した。屋形船では

新年会の数日前に中国・武漢市からの旅行者を接客したという

 とも書かれている。ざっくりと読むと、①屋形船での「中国・武漢市からの旅行者」から②屋形船の従業員に感染し、さらに③タクシー運転手に感染後、④タクシー組合の従業員という「ルート」が浮かび上がるが、ほんとうにこれで正しいのか。
 武漢市の旅行者が屋形船を利用したのは新年会が開かれる「数日前」。なぜ「数日」とあいまいなのかわからないが、「数日前」に接している従業員の発症(発熱)は読売新聞の3面のチャート図によれば「新年会(18日)」の3日後の「21日」であり、タクシー運転手の発症(発熱)は「29日」である。屋形船の従業員の発熱が「新年会前」ならば①「武漢市の旅行者」②従業員③タクシー運転手という「径路」は想定されうるが、従業員の発熱が新年会後なら、別のルートがあるかもしれない。ここには、もしかすると「武漢市の旅行者」が感染源という「先入観」が働いているかもしれない。これも、危険だ。差別につながると同時に、事実を見落としてしまう可能性もある。ふたりはまったく別のルートで感染したが、たまたま「屋形船」という共通点が見つかったというだけなのかもしれない。これは死亡した女性とタクシー運転手がたまたま「親族」だったという関係に似ている。

 さらに社会面の記事を読むと、別の疑問点も浮かぶ。読売新聞の記事は「屋形船」をキーワード(感染のポイント)にしているのだけれど。
 タクシーの運転手は妻と一緒に新年会に出席していた。そして「運転手の妻は新年会に出席したあと、義母と日帰りで外出していた可能性があるという。」この「可能性」というのは何なのだ。妻から聴けば「可能性」か「事実」かわかるはずなのに、なぜ「あいまい」なのか。
 もし一緒に外出していたとして、その場合、妻は「ウィルス」は持っているけれど発症しなくて、「ウィルス」の橋渡しをしたことになるのか。さらに運転手と義母の症状の変化を見ると、
 18日新年会 22日義母、倦怠感 2月1日肺炎 13日死亡
 18日新年会 29日運転手、発熱 2月3日肺炎
 と大きな違いがある。これは「体力差」によるものなのか。さらに引き返して、妻に症状が出ないのも「体力差」なのか。妻は「感染者」だけれど、発症しないのか。そういう人が他人に与える影響力というものは、どの程度なのか。
 もし、症状が出ないまま、別の人にウィルスだけを引き渡しという人がいるなら、これはとても深刻だ。「警戒」のしようがない。「熱があるから外出するのを控えよう」ということも起きないし、「咳をしていない、熱もなさそうだから、一緒にいても大丈夫」ということにもならない。「体調が悪いなら、休んだら?」と助言することもできない。

 いずれにしろ、「屋形船」とは関係なさそうな人にまで感染が拡大しているのだから、(屋形船の関係者が多数発症しているわけではないのだから)、「①武漢市の観光客②屋形船③タクシー運転手」とルートを限定するのは、あまりにも危険な気がする。多くのことを見落とすことにつながるのではないか。
 菅が言った表現を借りれば、

「流行している」と判断するに足るほど「感染ルート」が多いわけではない。

 とは言えないことになる。そしてそれは「感染ルート」がわからない。「感染ルート」を追跡する態勢が整っていないということを意味するだけだ。感染ルートが少ないわけではない。限定されているわけではない。全国各地、どこででも発生するのだ。

 するべき仕事をしていない、集めるべき情報を集め、分析していない。それを棚に上げて「流行していない」と言うのは、あまりにも危険だ。あまりにも無責任だ。
 もう「感染ルート」を特定に目を向ける段階ではなく、感染ルートは無数にあるということを前提に、どうすれば拡大を防げるか、それを考えるときなのではないか。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする