古川真人「背高泡立草」(「文藝春秋」2020年03月号)
古川真人「背高泡立草」は、第百六十二回芥川賞受賞作。「受賞作なし」になりそうなところを、逆転(?)勝ちして受賞作に、というような記事を新聞で読んだ記憶がある。不況は出版界にもおよんでいる。なんとしても本を売って稼がなければ、という気持ちはよく分かる。
あまり期待して読み始めたわけではないのだが。
「船着場」という章(?)の書き出し。
一体どうして二十年以上も前に打ち棄てられてからというもの、誰も使う者もないまま荒れるに任せていた納屋のまわりに生える草を刈らねばならないのか、大村奈美には皆目分からなかった。 (332ページ)
うーん、私は、ちょっと感動した。最近は読んだこともない、古くさくて、いかにも「小説」という文体だ。「皆目」なんて、耳で聴いて、理解できるかなあ。村上春樹の磨き上げた氷の上に、さらに油を引いたような、絶対にスピードが落ちない文体の対極にある。これは、しかし、長編小説の文体ではないか。どうなるのかな?
また彼女は、草刈りに自分が加勢しなければならない理由も分からなければ、いや、きっとこちらから頼まなくても喜んで来るにちがいないと母の美穂が独り決めに決めているらしい口調で、二週間前に電話口で言ってきたことも分からずにいた。(332ページ)
「独り決めに決めている」は舌を噛みそうだ。「分からなければ/分からずにいた」というのもしつこい。「口調で」「電話口で言ってきた」は「意味」はわかるが、こんなしつこくて古くさい言い方をいまだれがするのだろう。
「意味」をつたえるのではなく、「意味」以外のものを書く。私は確かにそういうものを読みたいと思うが、驚いてしまう。
これを、どこまでつづけるのか。
ずーっとつづけるならば、それはそれでおもしろいと思う。それこそ村上春樹の「対抗馬」になってもらいたいとも思う。
ところが。
まるで疲れを知らない馬の忙しく交互に踏み出される脚でも眺めているような気持ちになりながら感じていた。 (338ページ)
ここに書かれている「馬」は、どんな馬? 馬を古川はどこで見たんだろうか。競馬場? 競走馬は「疲れを知らない」という走り方はしないだろうなあ。ゴールがきまっている。そこへ向けて必死に走るだけである。
たぶん古川は「疲れを知らない馬」を見ないままに書いている。「比喩」を自分の「肉体」から引き出しているのではなく、「古い小説」で読んだことばのなかから引き出している。
古川の「文体」が古いのは、古川が「古い時間」を生きているからではなく、たんに読んでいる本が「古い」だけなのだ。「ことば」が「肉体」を通っていない。「頭」を通り抜けているだけなのだ。
この「馬」のあと、「母と伯母はどちらも、せっかちかと思えばだらしなく、またそうかと思えば」から「少しも躊躇わなかった」までの、十二行もつづく長い文章(338ページ)も、どこかの「古い」小説をのことばを「引用」し、つなぎ合わせている感じがしてしまう。
村上春樹の文章は、翻訳しやすいように「整理」されすぎているが、古川の文章は、逆に「整理」ということが一切されていないだけなのだ。
小説は「現代」と「過去」を行ったり来たりする。それも単に「整理」ができていないだけなのだろう。「だろう」と推量で書くのは、「雄飛熱」「昼」と350ページまで読んで、それから先をやめてしまったからだ。それにつづく「芋粥」をちょっと眺めてみたが「過去(戦争)」が書かれている。どうしたって、体験ではないね。
小説が「体験」にもとづかなければいけないというわけではない。「体験」しか書けないのだったら、小説の意味がない。でも、そのことばは、作者自身が「肉体」で知っているものでないとつまらない。どこかに「生々しい」ことばがあるかもしれないけれど、先に引用した「馬」のような古川のことばを支えているのだとしたら、読んでもぞっとするだけだなあと思ったのである。
「頭」で知っていることばで「肉体」のなかでうごめくものを整理しても、それは文学にはならない。ことばの整理の手順というか、方向性が完全に間違っていると思う。
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