詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

DIVA「よしなしうた」

2020-02-08 21:54:19 | その他(音楽、小説etc)


DIVA「よしなしうた」(troubadour cafe)

 DIVA「よしなしうた」は谷川俊太郎の詩に谷川賢作が曲をつけた作品。CDである。21曲収録されている。歌・高瀬"makoring"麻里子、ピアノ・谷川賢作、ベース・大坪寛彦(ゲスト=フルート・坂上領、バイオリン、ビオラ・帆足彩)。
 聴きながら、そうか、DIVAには(あるいは谷川賢作には、というべきなのか)谷川俊太郎の「ことば」はこんな音楽に聴こえるのかと思い、すぐに、いや、ここには谷川賢作が聴いた音楽そのものではなく、聴いた音楽に向き合っている「和音」のようなものが奏でられているのか、と思いなおす。
 つまり、谷川の詩から聴き取った音楽をそのまま再現しているのではなく、谷川の「楽譜」になっていない音楽そのものに向き合う形で、「楽譜」に再現できる音楽を演奏している。
 だから、この音楽に向き合うには、単にDIVAの演奏に耳を傾けるだけではなく、「音」としては表現されていない谷川のことばの音楽を聴き取ることも必要なのだ。
 と書くと。
 なんだかややこしいが、これは、私が「頭」で考えたことをことばにしたからだ。
 実際は、もっと簡単。

 谷川の詩を読むと、「音楽」が聴こえる。音楽の才能がある人ならそれを「楽譜」として再現できるかもしれないが、私にはそういうことはできない。ただ、「楽譜」にはなっていないが、私の「肉体」のなかで「響く」ものがある。あるときは「肉体」になじむし、あるときは「肉体」になじまない。違和感のある「音」もある。しかし、どんな形であれ、なんとなく「音楽」が聴こえる。
 私はどうしても、その谷川の詩の音楽を先に思い浮かべてしまう。私の「肉体」が覚えている谷川の音楽を抱え込んで、DIVAの音楽を聴く。そうすると、

 えっ、谷川の詩って、こんな音楽? こんなふうにDIVAには聴こえるのか。

 驚いてしまう。私の「肉体」が知っている谷川の詩の音楽とは違うからだ。
 でも、これは、あたりまえのことだと思う。
 詩ではなく(ことばではなく)、たとえばモーツァルトを聴いたとしても、私が聴いているモーツァルトの音楽と、他人が聴いているモーツァルトの音楽は同じであるはずはない。「楽譜」に再現すれば同じかもしれないが、響きあう「音(旋律、リズム、響き)」から何を聴きとっているかは、わからない。同じ音に感動しているかどうかは、わからない。きっと、聴いた人の数だけ違っている。
 「楽譜」があったとしてもそうなのだから、「楽譜」のない谷川の詩のなかの音楽なら、そこから聴き取るものは、もっと違っているに違いない。(あるいは、逆に、「楽譜」がないから「同じ」になるはずだということも考えられるかもしれないけれど、こういうことはあまり複雑に考えるのはやめておこう。)

 で。

 谷川の詩を読んだとき、私は「ことば」で感想を書く。それは私の勝手な感想だけれど、「対話」であるという意識もある。少なくとも、私は「こんなふうに読みました」と谷川に向けて「ことば」を動かしている。
 DIVAもきっと、「こんなふうに読み(聴き)ました」ということを「音楽」をつかって語っているのだと思う。声で、ピアノで、ベースで。

 私は歌わないし、ピアノも弾かない、ベースも弾かない。だから、DIVAの人たちが具体化している「音楽」が、彼らの「肉体」のなかでどう動いているのか見当もつかないのだが、聴いたときに「そうか、こんなふうに向き合うのか」と思う。
 私が谷川の詩を読んでいるときに聴こえるものとは違うと感じる。あたりまえのことだが、そのあたりまえに気づかされる。そして、これは谷川の詩を再現したものではなく、谷川の詩と向き合っている音楽なのだと思うのだ。
 すると、DIVAの音楽を聴いているのだという気持ちになり、落ち着く。

 最初に聴いたとき「かがやく ものさし」「けいとの たま」「たんぽぽのはなの さくたびに」「かえる」「おおい」「ここ」が、おもしろいと思った。二回目に聴いたときは「かがやく ものさし」「けいとの たま」「かえってきた バイオリン」「ふしぎ」「せなか」「おおい」「はくしゃくふじん」がおもしろかった。重なるものと、重ならないものがある。三回目を聴けば、また、印象が変わるかもしれない。でも、印象が変わりすぎると、感想が書けなくなるので、二回聴いたいまの感想を書いておく。
 一番好きなのは「おおい」、次が「かがやく ものさし」である。「かがやくものさし」は一曲目に収録されているので、印象が強くなるのかもしれない。でも、どこが好きか、なぜ好きか、ということは、「ことば」にならない。音楽について語ることばを私は持っていないのだろう。あえて言えば、詩と音楽が「ぴったり」あっているという感じがする。変な言い方だが、私が谷川の詩から聴き取っている音楽とDIVAが聴き取っている音楽が近いのかもしれない。
 「かえってきた バイオリン」と「はくしゃくふじん」は谷川のことばを離れて、ただ音楽としておもしろかった。二回目に聴くときは、詩がある程度、私の「肉体」のなかに入っているので、「ことば」を聴く(意味をたどる)という感じが軽くなっているのかもしれない。
 ただ「せなか」はちょっと不思議で、一回目に聴いたときは「かゆさがきえたら かゆみはどこへいくのか」という「ことば」がとてもおもしろく、その印象が強すぎると感じたのに、二回目は、その「ことば」の強さが妙に落ち着くのである。「音楽」というよりも、「ことばが指し示す意味」を、「あ、ここがおもしろい」と思って聴いているのである。
 「ことば」と「音楽」の関係が、いつでも同じように響いてくるわけではない。あたりまえのことなのかもしれないが、それがおもしろいなあ、と感じた。
 さらに、ぽつりぽつり、というか、ときどき感じたことなのだが、高瀬の「声」が描き出す旋律をピアノや他の楽器でたどりなおすということがいくつかの曲で繰り返されている。「音」から「ことば」が消えて、「旋律」に純化されていく。「純化」といっていいかどうか、わからないけれど、「あ、意味がなくなると、音が透明になる」と感じる。音が透明になるだけれど、しかし、肉体のなかには直前に聴いた「意味としてのことば」も残っているので、完全に透明ではない。だからこそ、また「透明」と感じるのだともいえるのだが。
 この不思議な「意味としてのことば」「意味を消し去った音」の向き合い方に、強く惹かれていることに気づく。
 「意味」と「無意味(意味を消し去ったもの)」はいつでも向き合い、追いかけっこをしている。そういうことが「音楽」なのかもしれない。「意味」を語ろうとすれば、「無意味」からも「意味」を語れるし、「無意味」を語ろうとすれば「意味」を土台にしても語ることができる。その間で、「音楽」は自由に動いている。そういうことを感じた。
 「よしなしうた」は、谷川の詩を中心に語れば、最後の「歌われて」をのぞけば、ナンセンスな詩である。「意味」をつたえることよりも「意味」を捨てて(消して、というよりも)、「もの」そのものを存在させる、という感じが強い。そういう詩に対して、DIVAの音楽は、「音」そのものを向き合わせ、「和音」になろうとしているように感じられる。


 



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嵯峨信之『小詩無辺』(1994)を読む(21)

2020-02-08 09:07:51 | 『嵯峨信之全詩集』を読む
* (去るということのなかへ)

遠くまで渚はつづき
たえず大きな浪が小さな浪をとらえて沖へつれ去つている

 「つれ去つていく」ではなく「つれ去つている」。英語で言えば「現在進行形」だろうか。「いま」が「いま」のまま拡大していく。
 「いま」を共有している。
 だが、そのとき嵯峨は「大きな浪」として「いま」を共有しているのか、「小さな浪」として共有しているのか。
 私は後者と読む。そして、そこに抵抗を感じる。「去る」のではなく、「いま」ここに、たえず「ここ」にいる「いま」ということろから世界を見つめている。







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