詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石川淳「葦手」

2021-04-02 10:46:24 | その他(音楽、小説etc)

石川淳選集 第一巻 「葦手」

石川淳の文章は独特である。「葦手」の一文は長くて引用するのも骨が折れる。7ページ。(表記は一部変更した。)

神楽坂裏の小料理屋からしゃべりあって来た調子がまだ抜けず、わたしがつい高声になるのを、仙吉はいつもの癖の急に小さい眼を狡猾そうにきょろきょろと廻したのであろう、色眼鏡をこちらへきらりと光らせながらおさえるような手つきをして(略)

どこからが説明で、どこからが批評か、よくわからない(特に区別し、分析しなくてもいい)、具体的な描写である。
描写には客観的と呼べるものはなく、というか、私たちはどんな具体的なもの、たとえば「色眼鏡」さえ、批評(感想)をもってことばにしているから、そこにはどうしても、批評や説明がくわわっている。
石川淳は、それをうねるようにもりこみ、ことばを動かす。石川淳にとって現実とは、批評や感想が緊密に結び付いた世界なのである。
これを石川淳は「レアリテ」と呼び、ことばとの関係を言い直している。46ページ。

すでに書かれてしまった部分は一つのレアリテであって、それみずから強烈な生命力を持っているから、たとえ中途でその息の根をとめようとしても容易にくたばりそうもない形相を示している。

ことばは発せられたら、それ自身の生命力で生き抜く。石川淳は、その強烈な運動を追いかけて行く。
その対象が、いわゆる低俗なもの、男と女の色恋という、誰もが想像するとおりのものであっても、そこには批評のことばがからみあって、ことば自身のレアリテをもって世界を生み出しているとしたら、、、、。
47ページ。

わたしのもくろむのは、低空飛行で、直下に現ずるこの世の相をはためく翅に掠め取って空に曼荼羅を織り成そうという野心を蔵している

どんな通俗も、ことばの運動で曼荼羅に変える。
この野心をもって、石川淳のことばの運動は過激に暴走する。
ストーリーを追っていては、曼荼羅に出会うことはできない。石川がある行動を、どのようなことばで描写しているか、どうやってレアリテを実現しているか、読まなければならないのは、そこだ。

コメント
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