石川淳選集 第一巻 「無尽燈」「焼跡のイエス」
コルタサルは「意識の流れ」というより「思いの流れ」を書く。意識、思いに似たことばに「精神」ということばがある。
石川淳は「精神」ということばを好む。「無尽燈」に、こんなことばがある。297ページ。
人間精神がいかに美しいはたらきをするか、まのあたりに知ろうとすれば、精神が物質とたたかってついにそれを征服したところの形式に於いて見とどけるほかない。精神の運動はいつも物質の運動よりも速いだろう。また精神の達すべき目的は、物質の達すべき目的よりも、かならずや高次の世界にあるだろう。
精神と物質を対比もさせている。精神を物質よりも高次元にあるととらえている。
そういうことよりも私が注目するのは、「運動」ということばと「速い」ということばである。
精神が物質よりも上というのは形而上学ではよくいわれる。
石川淳は、その根拠を「運動の速さ」で把握する。速く運動するものが、より高次の世界に到達するのである。のろのろしていては、低次元にとどまる。
石川淳は、巷の、いわゆる低次元の人間の行動を描きながら、それを突き破る精神の速さ(強さ)を引き出す。物質から精神が噴出する瞬間を描く。
286ページには、こんなことばもある。
きもちという不潔なものを大事がって、
石川淳には「きもち」は不潔である。石川淳がコルタサルをどう読むか知らないが、「思いの流れ」というようなことばでは評価しないだろう。コルタサルは、物質と対比させて精神の運動を描くというようなことなしない。
「焼跡のイエス」には、外見上、非情に不潔な少年が登場する。物質的に不潔である。しかし、少年は物質的な不潔を超越している。331ページ。
ボロとデキモノとウミとおそらくシラミとをもってかためた盛装は、威儀を正した王者でなくては、とても身につけられるものではない。
その少年は、王の精神、焼け跡のイエスの精神を具現化している。ボロ、デキモノ、ウミ、シラミの次元を超越し、ものすごいスピードで運動している。
それが主人公を恍惚とさせ、戦慄させる。だからこそ、336ページ。
きのうのイエスの顔をもう一度…まぢかに見たいとおもった
それにしても、作家の文体はおもしろい。ひとりひとりが独自の文体を生きている。日本語、スペイン語というくくりではなく、コルタサル文体、ジョサ文体、石川淳文体として向き合わないと何が書いてあるかわからない。