詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石川淳「普賢」

2021-04-05 10:48:06 | その他(音楽、小説etc)

石川淳選集 第一巻 「普賢」

石川淳「普賢」は何を書いているか。これについては、私は関心がない。どう書いているか、なぜ書くか、のほうに関心がある。そもそも書くとは何か。
書き出しに、こういう行がある。82ページ。

かりに物語にでも書くとして垂井茂市を見直す段になるとこれはもう異様の人物にはあらず、どうしてこんなものにこころ惹かれたのか

「見直す」という動詞。書くとは、対象を見直すことである。同時に自分を見直すことである。
でも、何を見直す?
「異様」を見直す、普通の人とは違う部分を見直し、その異様の正体を明るみに出す、ということだろう。
しかし、その人物が異様でないとしたら。
むずかしいね。
物語にならない。その、物語にならないものを、さらに見直し、何かを探し出す。その装置が小説である。

これを、別なところで、別なことばで、こう書いている。92ページ。

恋愛に於ける悲劇とはそれがために人間学部堕落するからではなく、その翼に乗って高翔するに堪えない人間精神の薄弱に由来するものではないか。

恋愛に限らず、あらゆるにんげんの営みには「精神」がともなう。石川淳は、精神の高翔を書きたいのだ。どんな風にどこを飛ぶのか。
「恋愛」を「無謀な行為」と呼び、石川淳は次のようにも書く。185ページ。

かならずすべき一つの無謀なる行為はつぎに来るべき秩序ある行為をはらんでいるはずであり、そのはてに実を結ぶなにもないとすればそれはわたしの終焉だというのみである。

「つぎ来るべき秩序ある行為」は「精神」と読み替えることができる。
石川淳にとっては、「精神」は「行為」である。書くことは「精神の運動」である。

コメント
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