* (そして非在は湖を閉ざした)
<blockquote>
ぼくの歩く音のみがきこえてきた
</blockquote>
「湖を閉ざした」の「閉ざす」はどういう意味だろうか。湖への入り口がなくなった、ということか。そこにあるけれど、そこに入ることはできない。
あるいは「非在」と「閉ざす」は同じ意味かもしれない。
湖が消える。消えたけれど、湖の記憶がある。ここに湖があったはず、と思いながら「ぼく」は歩く。歩きながら、非在の湖を思う。あるいは、いま、ここに非在だからこそ、湖を思うことができる。
非在は、そのとき比喩になる。
しかも「非在の湖」という超越的な比喩に。比喩でしか(ことばの運動でしか)存在し得ないものになる。
そのとき、「ぼく」も消える。非在になる。しかし、「歩く音」は存在する。「ぼく」が存在した証として。
「聞こえてきた」は、すこしむずかしい。この「きた」は過去形ではなく、現在形である。電車がホームにはいってくる。そういうとき「あ、電車がきた」という「きた」に似ている。「到来」である。「ぼく」が消えたことを認識する、その認識が「音」として到来するのである。
*
詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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工藤正廣「出会いと別れのあかるさ」(「午前」19、2021年04月15日発行)
工藤正廣「出会いと別れのあかるさ」は大学の恩師のことを書いている。とても美しい連がある。
あなたはその日その日の手書きの詩をぼくに渡してくれた
これまでみたこともないような美しい筆記体のキリル文字だった
それを受け取って授業の前にプリントするのが
ぼくの役目だった
あれは何という名だったろう
乾湿プリンターだった?空色の液体のなかに用紙をくぐらせ
そして出てきたプリント用紙はうっすらと湿ったライラック色
アレクサンドル・ブロークの詩のテクストは
あなたの手蹟で まるでネヴァ河の波から現れたとでもいうようだ
乾くまでのあいだ しばしぼくは湿った用紙から生まれる詩句を見つめる
工藤が書いているプリンター(?)を私は知らないが、次世代のコピー機も似たようなものだった。湿って、濡れている。ライラック色ではなく、灰色だったような気がする。文字が浮き出てくるのはいいが、時間がたつと消えてしまう。
工藤のことばが美しいのは、コピー(プリント)の過程のなかに時間があるからだ。「くぐらせる」「出てきた」という動詞をつきやぶって、「現れた」という動詞がライラックの花が咲くように動いてくる。
ネヴァ河(の波)を、そのとき工藤が知っていたかどうか、わからない。たぶん学生だから、実際には、まだ見ていないだろう。しかし、写真や雑誌などで見たことがあるかもしれない。あるいは地図を見ながら何度も想像したかもしれない。そして、その想像は、単なる想像ではなく、工藤の「肉体」にしみついた「思想」になっていただろう。それを突き破って、知らなかったもの、しかも「ほんもの」が、まるで花が開くように、自らの力で生まれてくる。
それは「美しい筆記体のキリル文字=手蹟」をさらに突き破り、「アレクサンドル・ブロークの詩句」になる。詩句になりながら、また、「美しい手蹟」であることをやめない。ふたつは「ひとつ」になって、そこにある。
ここに書かれているは「記憶」である。しかし、その「記憶」は「いま」生きて動いている。「ぼくは湿った用紙から生まれる詩句を見つめる」と現在形で書かれるのは、そのためである。
詩は、つまり充実した時間は、いつでも「現在」である。
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