フリオ・コルタサル「ずれた時間」
短編集「海に投げ込まれた瓶」のなかの一編。
幼なじみの姉の思い出。何年後に、二人は出会う。
その書き出しの方に、こう書いている。107ページ。
二度と体験できないことを書きつらねていると(略)なんの変哲もない記憶の内部に第三次元への通路が開け、必ずといってよいほど苦々しいものであるにもかかわらず渇望せずにはいられない連続性が生まれるように思われる。どういうわけか、ぼくにはくり返し思い出すことがいろいろあった。
書くこと(くり返し思い出すこと)から生まれる「連続性」。この連続性は、ベルグソンの持続につうじる。
そしてその連続性とは時間のことであり、繰り返し思い出すことでより緊密に、つまり充実したこころになる。この充実をベルグソンは「自由」と呼んでいると思う。
それは、完全に個人のものである。
ベルグソンは「物質と記憶」のなかで「私の身体」ということばを繰り返す。私の、を繰り返す。普遍的な哲学を書いているようにみえて、あくまで私にこだわっている。個人から出発する。哲学であると同時に、文学なのだ。
ベルグソンを思い起こさせることばは、ほかにもある。128ページ。
すべてはまだ夜の九時の純粋否定、翌日また仕事に戻ることへの億劫さの純粋否定であった。
この「純粋」。ベルグソンが主張しつづけた「純粋」。
さらに、同じ128ページ。
言葉はふたたび生で満ちあふれて、嘘であろうと、何ごとも確かでなかろうと、ともかくそれらの言葉を書きつづけたのだ。
「生で満ちあふれる」もベルグソンである。生で満ちあふれた連続性(維持)が、いわゆる「生きた時間」。それは数学的、物理的な、時系列、時計で計測できる時間ではなく、むしろそれを突き破る個人も内面の時間、自由な時間、時間の自由。
それは「南部都市高速道路」のように、自在に伸び縮みする。
この時間の不思議さを「ある短篇のための日記」では、「同時」ということばであらわしている。160ページ。
ぼくはとかく追憶に溺れがちで、同時に、それから逃れようとする。
矛盾。矛盾のなかには同時がある。そこでは異なる時間が出会い、新しい時間を生み出している。
思いの流れ、と呼びたいものが。
私は、ウルフよりも、コルタサルが好きだから、意識の流れということばを避けて、そう書くのである。