北沢十一「ブルースカイ ブルー bluesky blue」(「くり屋」89、2021年05月01日発行)
北沢十一「ブルースカイ ブルー bluesky blue」。北沢は川下りをしている。
日本に美しい川はあるか
こんなテーマで川を漕いでいったら
悲しくなる
青い空は碧い
漕いでいく先は自分がいるところだ
この「漕いでいく先は自分がいるところだ」がいい。前の行の「青い空は碧い」につられて、私はこんなことを思うのだ。「碧」は紺碧の碧。それは青が凝縮し、より純粋に結晶した絶対的な色。川を漕いでゆくと、北沢はきっと純粋になるのだ。漕いでいく先で、北沢は純粋な自分に生まれ変わるのだ。自分の汚れ(?)を棄てるために北沢は川を漕いでゆく。
一枚の絵葉書が昼の月から届く
さみしい歌はもう書かないほうがいいとある
私が仮に「汚れ(純粋の対極にあるもの)」と呼んだものは、ここでは「さみしい歌」と言い直されている。「さみしい」はこころにひっかかる何か、ということであるだろう。それは「日本に美しい川はあるか」という嘆き、怒りかもしれないが、北沢は、もっと「個人的」にこう書き直している。
故郷に置いてきたわが家の娘一家失踪事件の糸口を
ほどいて川に流す
この先何がどうなろうといいのだ
娘たちがどうなろうといいのだ
それよりも若いころ源流付近で仕掛けにかかった
ウナギは美味かったかどうかだ
またつまらないことを思い出したものだが
「娘一家失踪事件」が事実なのか詩のための虚構なのか、私にはわからない。わかるのは、「娘一家失踪事件」と自分でつかまえて食べた「ウナギは美味かった」を比べて、後者の方を大事だと感じているということだけである。
それは「つまらないこと」と言い直されているが、この「つまらないこと」のなかに純粋がある。「つまらない」は何の役にも立たない、ということでもあるだろう。ほんとうは何かの役に立っている(たとえば、北沢をなつかしい気持ち、うれしい気持ちにさせる、あるいは川を漕ぐという動機に役立っている)のだが、それはあくまで「個人的」なこと。そこに「純粋」の手がかりのようなものがある。充実した一瞬、「美味い」と感じる喜びの一瞬。
以前日記に書いたベルグソンの「自由な時間(充実した時間)」、あるいはコルタサルの書いている「思いの流れの横溢」に通じる「一瞬」である。北沢は「思い出す」ということばをつかっているが、「思い」は「娘一家失踪事件」と「ウナギは美味かった」を同じように引き寄せる。そのなかで、ひとは動いている。そして、より強くあふれてくる「思い」の方が、「個人的肉体/個人的思想」にとっては重要なのだ。
そういうものが「この先」ということばといっしょに動いている。「この先」は「漕いでいく先」の「先」と同じものだ。この動いている感じがとてもいい。私はたまたま「ウナギが美味かった」の方が大事と書いたけれど、それは「この先」でまたかわるかもしれない。やはり「娘一家」の方が大事だと思いなおすかもしれない。それはどっちになろうと「どうでもいいのだ」。「漕いでいく先」「この先」に何が起きるかなんて、わからない。でも、そのとき起きるのは「純粋」な何かだ。
うすい虹が下流の町の空に架かる
亡くなった友も生き延びた輩も
もう忘れ物をさがす必要はない
問えばまたうなずく問いがあるばかりだ
最終行がいいなあ。
「問えばうなずく答えがある」のではない。また「問い」があるのだ。そして、それは「うなずく問い」なのだ。自問の繰り返し。「娘一家失踪」よりも「ウナギが美味かった」が大事か、そうであるはずがないが、いったん肯定した後で問い直すのだ。「娘一家」も「ウナギ」を思い出さなければ「これから先」へいけないのだ。問いかけ、問いかけ、さらに問いかけつづけて、答えは「どうでもいい」に達するかもしれない。つまり、「存在」をあるがままに受け入れ、和解するというところに。この不透明さこそ、この矛盾こそが、北沢にとっては「純粋」なのだ。不透明という純粋。「碧」は「透明」ではなく、あくまでも「青」が凝縮したもの、結晶の輝きで透明と錯覚させる純粋さである。そういう「矛盾」の不思議な美しさを感じさせてくれる。北沢の詩は。
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