フリオ・コルタサル「舟、あるいは新たなヴェネツィア観光」
短篇集「通りすがりの男」(現代企画社)のなかの一篇。作品の登場人物(三人のうちの一人)が、一度書かれた作品に対して自分の考えを付け加えるという、ちょっと剽窃したくなるような、いかにもコルタサル的作品。からまった思いが、もう一回絡まるのか、解きほぐされるのか。思いだから、絡まっても解きほぐされても同じことだけれど。
そのなかに、時間についてのやりとりがある。118-119ページ。(途中、省略含む)
「愛というのは、思い出よりも、思い出を作ろうとすることよりももっと強いものなんだ」
「私は時間が怖い、時間は死なの、死がかぶっている、ぞっとするような仮面なのよ。私たちは時間を敵にまわして愛し合っている」
「僕のほうは自分の喜びや気まぐれに合わせて時間を決めることができる。列車だって乗りたきゃ乗るし、いやならやめるだけだ」
「ええ、そうなの、違うわ、時間というのは・・・」
たぶん男のことばがコルタサルの時間論である。自分の気まぐれ、よろこびが噴出する充実した一瞬。計測できないいのちの横溢。
それを言い直せば「愛」になる。
この二人の会話に対して、もうひとりは「違う」と言うが、どう違うかはことばにならない。
そして、同様に、いつでも「ことばにならない思い」というものがある。
最初に小説が書かれたとき、一人の思いは書かれなかった。だから、あとから登場人物が自ら、そのときの思いを、いま、思い出しながら書き加える。
そして。
では、そのとき完成されるのは、過去(思い出)の時間なのか、それとも思い出しているいまの時間なのか。
判別できない。特定できない。何もかもが、時制の束縛を裁ち切って噴出する。ことばにはならない。それが「・・・」なのだ。
小説だから、もちろん時系列もあれば事件もある。でも、コルタサルが書くのは、事件ではなく、ストーリーではなく、ただ、ある瞬間に思いが横溢し、それはすべてを飲み込んでゆくという人間の仕方なのである。
これは、やっぱり、ベルグソン的と私は思う。
パリ的だ。ブエノスアイレス的というよりも。ブエノスアイレスを私は知らないのだけれど。
「光の加減」は、上に書いたこととは関係ないのだが、この光の好みは、最近のウッディ・アレンの女の描き方に通じるなあ、と思う。揺らぐ美しさ。思いも、揺らぐから美しいのだろう。