長田典子「どこまで」(「独合点」143、2021年04月30日発行)
長田典子「どこまで」には過去と現在、さらに未来が交錯するのだが、私は、過去について書かれたことばが好きだ。
<blockquote>
「乙女の祈り」を練習して練習して
ついに完成できなかった五十年前の春
ある春は きみの自転車の荷台に跨り
用水路沿いの桜並木を走った
花筏の絨毯を追いかけた
ねぇ、どこまで行くの?
きみの背中越しに大声で聞いたんだ
</blockquote>
私がとくに気に入っているのは「五十年前の春/あの春は」と改行して「春」が繰り返されているところ。話題が(書かれていることが)ここで変わるのだが、その変わり目の息づかい、瞬間的な「思い」のあふれ方がとても美しい。「あの春は」というひとことはなくても意味は通じる。しかし、「思い」が飛躍したという感じはつたわらない。さらに、その飛躍が、思い出の奥から自然にあふれてくる感じがつたわらなくなる。たぶん「乙女の祈り」と書いたために、長田が「乙女」だったときの「祈り」がおさえきれずにあふれてきたのだ。「乙女の祈り」を練習していたとき、音楽とは別に長田には思っていたことがあったのだ。彼女自身の「乙女の祈り」があったのだ。もしかすると、その邪念(?)のために曲を完全に弾きこなすことはできなかったのかもしれない。でも、それは「完全」ではない(完成していない)からこそ、長田の「乙女の祈り」だった。完成していたら、誰もが弾く「上手な」ピアノ演奏になっていただろう。
そういうことを勝手に私は考えるのだが、そのきっかけが「五十年前の春/あの春は」という部分なのである。それからつづく「思い出」のハイライトは、美しいけれど、「五十年前の春/あの春は」という「焦点化」があってのことなのだと思う。
とてもいいなあ、この詩は大好きだなあ、と私は感じる。
しかし、
詩はつづく。
久しぶりの同窓会で見かけたけど
きみはもうきみじゃなくて 知らないおじさんで
髪が薄くなっていたから
いけないけど 笑いそうになった
白髪頭の太ったわたしを きみもわからなかったみたいで
帰りの電車に乗ったときは
髪の薄いきみの顔を すっかり忘れていた
これは自転車のエピソードよりも、もっとありふれたことのように思える。そして、同じように個別の(つまり、長田自身の)思い出(つい最近の思い出かもしれない)なのに、あまりおもしろくない。なぜなんだろうなあ。
たぶん。
「髪が薄くなっていたから」の「から」に原因がある。「から」は理由である。しかも、それは他人に納得してしまうための理由である。「五十年前の春/あの春は」の移行が、他人を説得するというよりも長田自身が納得するであるのとずいぶん違う。他人に言い聞かせるための「から」につづくのは、さらに他人に聞かせることばだ。「いけないけど 笑いそうになった」の「笑い」は「観客」(読者)を意識した笑いだ。「きみもわからなかったみたいで」の「で」にも、何といえばいいのか、他人(読者)を説得しようとする意思(意図)の方を強く感じてしまう。
だから、というのはきっと変な接続詞の使い方になるのだが、あえて「だから」と私は書く。だから、この部分の美しいはずの結論「きみの顔を すっかり忘れていた」が長田の肉体ではなく、長田の「論理」に見えてしまう。
言い直せば、タイトルにもつかわれている「どこまで行くの?」の「どこまで」を感じることができない。
自転車の荷台に乗って花筏を追いかけたときは、ほんとうに「どこまで行くの?」がわからなかった。そこに思春期の美しさがある。でも、この連では「きみの顔を すっかり忘れていた」としても、長田は自分の家に帰る。「どこ」が見えている。
花吹雪を見ると 尋ねたくなる
ねぇ、わたし、
どこまで行くの?
あとどのくらい行くの?
最終連。「どこまで」が「どのくらい」に変わる。ここに長田のかなしさ、人生(生きていること)のさみしさがあるのだが、それがちょっとだけ「親身」に受け止めることが私にはできない。この終わり方いいなあ。とくに「どこまで」が「どのくらい」に変わるところがてともいいなあ、と言いたいのだけれど、ためらってしまう。
それは「髪が薄くなっていたから」「きみもわからなかったみたいで」の「から」と「で」が、私の肉体にひっかかっているからである。
なぜ、その連だけ読者を気にして書いているのか、それが私にはわからなかった。
私はどうも妙なところ、多くの人が「思想」と呼ばない部分(ことば)に「思想」を感じ、それが気になるのである。ストーリーとか結論ではなく、ことばを動かしていく動かし方に、その人の「肉体(思想)」を感じ、気になるのである。
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