長嶋南子「東花畑一丁目」(「Zero」16、2021年05月03日発行)
長嶋南子「東花畑一丁目」は
花の畑はどこにもありません
では、何があるか。暗渠になった川と、幾角に三軒の家が立っている。というよりも、「記憶」がある。たぶん、振興住宅地。そこに引っ越してきて、暮らしたという「記憶」は、いまもある。別に思い出さなくてもいいことなのだが、思い出してしまう思い出が、生きている。
それぞれの家にはふるさとから切りとられた男
と女が住んでいます 男はふるさとのことばで話し
女はふるさとの味付けで食べています
「記憶」なのだけれど、現在形で書いている。「記憶」である証拠は、つぎの段落にこう書かれている。「わたしの夫は風呂敷につつまれて押し入れのなかにいます」、つまり死んで「骨壺」のなかにいるということだろう。
その夫は、
息をひそ
めて私がする電話のやりとりに聞き耳をたてている
のです 夫はふるさとの父母のもとに帰りたいので
しょうか わたしのところにいたいのでしょうか
この部分が何とも言えずに、いいなあ。夫が長嶋の電話に聞き耳を立てているというのは、夫の癖(?)をいま思い出しているという意味なのだと思う。そういうことは、まあ、ふいに思い出されるものなのだろう。これは、いわば、長嶋の「妄想」、あるいは「錯覚」といってもいい。そこにいないのに、そこにいるように感じられる。
でも、そのあとの「夫はふるさとの父母のもとに帰りたいのでしょうか わたしのことろにいたいのでしょうか」というのは「妄想」でも「錯覚」でもない。長嶋が「思いやっている」のである。「聞き耳を立てる夫」は、「記憶」からあらわれてくる。ところが、長嶋の疑問は、「記憶」からあらわれるのではなく、「記憶」の方へ向かって動いている。
「記憶」のどこかに、夫の気持ちを判断する何かが残っていないだろうか。
それを探している感じがつたわってくる。
「記憶」には二種類あるのだ。「過去」から浮かびあがってくるものと、「過去」へ訪ねていってつかみ取るもの。これは、愛がないとできない。
それを克明に語るのが、この疑問に対する「答え」がないことだ。どっちか、わからない。死んでしまったのだから、ことばを聞けない。だから、わかるわけがないのだが、そのわかるわけがないことを訪ねずにいられないのが愛というものなのだろう。正直というものなのだろうと思う。
死んでしまったのだから、そんなことは、どっちだっていい、と冷たいことばを動かしてみれば、そのことがさらによくわかる。他人にとっては、どっちだっていい、どうだっていいことだが、長嶋には「どっちだっていい」(わからないくていい)ということではないのだ。どっちかでなければいけない。
この気持ちをほうりださずに、じっと抱きしめている。
と、ここまで書いてきて、やっと私は「わかった」気持ちになる。
長嶋の詩は、不思議な乱暴さがある。「わたしの夫は風呂敷につつまれて押し入れのなかにいます」にも、その乱暴さがある。「押し入れに入れておくことはないだろう」と心ある人は言うだろう。しかし、乱暴に見えても、長嶋はその「夫の骨壺」をはなさずに持っている。ほうりだしはしない。いつも抱いているわけではないか、いちどもほうりださない。
息子に対しても同じである。
四十年が過ぎました 私は脳に傷のある息子と
暮らしています
事実だとしても「脳に傷がある」と直接的に書かなければならない理由はない。でも、長嶋は、そう書くことで逆に「ほうりださない」ということを選んでいるのである。ことばにして書く。そのことが「ほうりださない」の証拠なのである。ことばで抱く、ことばでつながりつづける。
そう決意しているからこそ、「想像」するのだ。「ふるさとの父母のもとに帰りたいのか」「わたしのことなにいたいのか」。そのあとに、書かれないことばがある。そのことばは書かないことによって、さらに強くなる。どういう意味かというと、それは、その問いを長嶋は繰り返し問い続けるということである。繰り返すことで、強くなる強さなのである。
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