鴎外選集 第四巻 「灰燼」
「灰燼」は奇妙な作品である。タイトルが何を意味しているか、わからない。途中で終わっている、という感じだ。たぶん、書けなくなってやめたのだ。この、書けなくなったらやめてしまう、というところにも私は鴎外らしくていいなあ、と思ってしまう。
主人公は「歴史」を書こうと思っている。そして「神話」とどう折り合いをつけようかと悩んでいる。神話は嘘、切って捨てたいが、そうすることで、世間を納得させることができるか。
この主人公は、鴎外自身と言っていいだろう。
途中に、こんな文がある。56ページ。
節蔵は何の講義を聞いても、学科の根底に形而上的原則のようなものが黙認してあるのを、常識で見出して、それに皮肉な批評を加えずに置かない。それが工藤の講義には恐れ入っている。事実を語り、事実を示すのみなのに、乾燥無味に陥らないからである。
この「事実を語り」以降が、鴎外の「歴史」を意味している。人間の事実を、行動をそのまま語る。形而上学を付け加えない。
「渋江抽斎」だね。
人間が動けば、そこに自然に思想が動く。この自然な思想を「精神」と呼べば、石川淳に繋がる。石川淳が鴎外を尊敬する理由もわかる。
石川淳は「精神の運動の速さ」と言ったが、その速い遅いは、事実の動きを描き出すことばに嘘があるかないかによって決まる。嘘がなければ、ことばは滞らない。おのずと速くなる。正確(正直)は、すばやく精神に届くのである。「精神の運動の速さ」とは、事実のなかからあらわれた精神が、人間の精神に届くまでの時間の速度、充実感のことである。
このとき、ことばの運動の内部でも劇的なことがおきる。75ページ。
現に書いている句が、頭の中にいる間、次の句の邪魔をしていたのに、それが紙の上にぶちまけらてると同時に、その次の句が浮き出してくる。書いている物に独立した性命があって、勝手に活動しているようで、自分はそれを傍看しているかとさえ思われる。
事物の中に精神が充満し、横溢し、自由に動き出す、と読みなおせば、ベルグソンと石川淳と鴎外が繋がり、瞬間的に炸裂する。
「鎚一下」にも鴎外その人をおもわせる主人公が出てくる。H君という、いわば無名のひとが出てくる。その人は無名だが、他人との向き合い方が正直である。「一人一人に人間としての醒覚を与えようとしている」(152 ページ)。そして、
己も著述家になろうと思っていて見れば、いつかこんな人の生活を書いて見たいと云うのである。
渋江抽斎がH君のような市井の人ではないが、やはり正直な生活を生きた人である。その正直は、抽斎が死んだあとも周囲のひとの間で生きて行く。そこに鴎外の信じた「歴史」がある。