ベルグソン全集2 「物質と記憶」
ベルグソン「物質と記憶」をどう読むか。
私は「一元論」として読む。
そして、その一元論の基本に「私の身体」を据えているところが、私のいちばん共感するところである。
共感と言っても、私の一方的誤読だとは思うが。
こう書いている。19ページ。
私がたんに外から知覚によって知るばかりでなく、内から感情によってもまたそれを知るという点で、他のすべてのイマージュからはっきりと区別されるイマージュがひとつある。それは私の身体である。
私自身は身体ということばは、めったに使わない。身体検査ということばが影響しているかもしれない。身体ということばには、計測可能というか、客観的尺度がつきまとっているようで、どうもなじめないのである。私は、肉体、という表現を好む。私の肉体、ことばの肉体という具合に流用もできる。もちろん水の肉体、木の肉体という具合にも。
ちょっと脱線するが、脱線でもないかもしれない
私はこの「物質と記憶」を「時間と自由」とごちゃまぜにしてつかむ。そうすると「純粋持続」が「時間=肉体(私の身体)」として見えてくる。肉体の行動、行動する肉体の中から生まれる「自由」が、現在から横溢して「未来という時間」になるのだが、横溢つる現在とは、実は過去の潜在する可能性に他ならないから、未来とは顕在化する過去のことでもあり、その矛盾(?)を統合化するのが「私(の肉体/身体)」なのだ。
こういうことは、まあ、どうでもいい。
私が誤読/納得するのは、ベルグソンが「身体」という具体的なものを手放さず、常に具体的に語ること。別のことばで言えば、「生活」の哲学を指向すること。
哲学は、具体的な生活のなかにあってこそ哲学なのだ。
それにしても。
この「物質と記憶」には、「私の」という所有形容詞が非常に多い。私の、私の、私の、である。
私の、を省略して「身体」と言った方が一般的になるが、ベルグソンはそれを拒んでいる。あくまで「私の」である。
だから、私はこれを普遍的な一元論とは読まずに、あくまでも「ベルグソンの一元論」と読む。
で。
ベルグソンに向き合いながら「私の一元論」を要約すれば、私は私のことばの肉体が届く範囲を「世界」と考えている。
誤読は、私が把握している世界、私が交わっている(セックスしている)世界である。
だから、批評とは、ことばのセックスなのである。