詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(16)

2022-05-18 08:06:23 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(16)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 16篇目「六根、リヤカーを引け!」を読みながら、詩とは不思議なものだと思う。詩だけではなく、文学が不思議だし、ことばが不思議なのだ。

そんなに むちゃ引きしていいのかね
急げば 六根 からだにさわります
少し乱暴だが 是が非でも会っておきたい友がいる
どこか あどけなく右手の中指で
解放の二文字を 宙に 書き綴る
肺病に囚われた 気丈の男が
リヤカーの荷台で おれの六根を急かす
松の 竹の 梅の小径を 蹴散らして
リヤカーを はやく引け!
東村山「国立療養所多磨全生園」へ

 前書きというか「副題」というか。それとつきあわせて読むと、どうも肺病の男が、友人の危篤の知らせを聞いて、どうしても会いたくなり、リヤカーに乗って駆けつけようとしている。
 で、不思議、というのは。
 こういう詩を(ことばを)読んだとき、私は何を思わなければいけないのか、ということと関係している。
 「どうか間に合ってくれますように」と思わないといけないのかもしれない。それが「人情」というものかもしれない。
 ところがね。
 もちろん「間に合わなければいい」とは思わないが、「間に合う」「間に合わない」ということとは無関係に、この急いでいる様子に興奮してしまうのである。リヤカーを引かせ、その荷台から「もっとはやく」と叫んでいる男の様子に夢中になってしまう。引きつけられてしまう。「もっとはやく」という叫びを、もっと鮮明に聞きたいと思ってしまう。
 リヤカーを引かせている男だって死ぬかもしれない。彼の方が危篤の男よりも先に死ぬかもしれない。そうであったとしても、その男の苦しい熱望を見たいと思ってしまう。

 私は非情?

 そうかもしれない。けれども、この興奮を抑えることができない。
 そして、この興奮が、なんというか、書かれている「事実」よってのみ引き起こされるかといえば、そうではないのだ。いま起きていることを語る「ことば」、その「音」「リズム」によってもかきたてられる。

そんなに むちゃ引きしていいのかね
急げば 六根 からだにさわります
少し乱暴だが 是が非でも会っておきたい友がいる

 一行目は、誰のことばか。「いいのかね」という、突き放したような口語の口調。「むちゃ引き」というのも、激しく口語だ。二行目は、一行目のことばを言ったひとのことばかもしれない。今度は「からだにさわります」とていねいに諫めている。そのとき「六根」ということばを挟んでいる。「六根」は「かけ声」だけれど、本来の意味は「五感+精神」だと思う.だから石毛は「六根」を「からだ」と言い直し、ことばをつづけている。私は「六根」ということばを日常はつかわないから、ここで、突然、「異次元」へ引きずり出される感じがして、それが私をさらに興奮させる。
 三行目は、リヤカーを引かせている男の思いだろうけれど、今度は「友がいる」と、ふうつ体の表現。
 「文体」が三行のなかで、激しく交代している。そして、そこに先に書いた「六根」という、ふつうはつかわないことばも動いている。何か、この三行だけでドラマチックなのである。ドラマというのは、ハッピーエンドでなくても、感動する。ドラマであることによって感動する。そういう世界へ石毛は私をひっぱっていく。

清瀬、松竹梅を冠した 町のことほぎに
隠された陸の孤島から そこの塞ぎを 突破して
---ゴロゴロ、ガキガキ、ゴロゴロ、ガキガキ。
やくさむリヤカーを はやく引け!
白木蓮も 欅も 白樺さえも
無差別に 木を一括りにして
---それは、樹木というものだ!
粗っぽく片づけてしまうように

 私の引用は、詩を正確につたえることには役立たないかもしれない。どの行がどの行と関係しているか、それを気にせずに、ここがカッコイイと思ったところを、その部分だけ取り出しているからだ。
 ここでは「ゴロゴロ、ガキガキ、ゴロゴロ、ガキガキ。」という音が強い。昔は砂利道。リヤカーを引けば石がぶつかりあい音を出す。それはリヤカーにも反映する。だからこそ、「からだにさわります」という最初に引用した二行目のことばもあるわけだが。
 さらに、ここには「やくさむ」という、これまた、もう日常では聞かないことばが突然あらわれる。リヤカーに乗っている男も病人なら、それを引いている男(だと思う)もまた病人であるのか。そうであるなら「からだにさわります」はリヤカーを引いている男が私にはむりです、といっていることになる。それを承知で、しかし、乗っている男は「はやく」と叫んでいることになる。
 これではもう三人とも死んでしまう。
 しかし、三人が三人とも一緒に死んだら、それはまたドラマチックでカッコイイと思うだろう。私は、そういうことを望んでいる。その私の「望み」のなかでは、リヤカーに乗っている男、引いている男、それから危篤の男は、三人でありながら「ひとり」であり、その「ひとり」が石毛を乗っ取り、石毛を動かしている。逆に、石毛が三人を乗っ取り三人を突き動かしているとも言える。このドラマは、ハッピーエンドでは終わらない。ハッピーエンドで終わってほしくない。いや、ことばのなかで、劇的な不幸、絶望がが起きることを私は望んでいる。ギリシャ悲劇を見るように。
 ことばには、そういう理不尽な興奮を引き起こす魔力がある。そういう魔力を持ったものが、文学であり、詩なのだと思う。

富蔵よ!
おまえに 遭わねばならない
会って 言わねばならない
富蔵よ!
肺病タカリの息に のけぞるおまえの霊気は
秩父颪の砂塵に たえているか
狭山丘陵の白神 八国山にやくさむ たそがれ
ヤクザなリヤカー ニヒルな陶酔 すがる泪をうちすえて
---ゴロゴロ、ガキガキ、ゴロゴロ、ガキガキ。
やくさむリヤカーを はやく引け!
餓鬼のをぐりは 土車に引かれ 担がれ
---えいさら、えい!
道中 掛ける声が やけに昂り
全生園の欅並木 いっきに駆け抜けて
---もっと、速く。もっともっと速く、引いてくれまいか。
   もっと、もっと速く、引いてくれまいか。

 

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