詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(11)

2022-05-09 18:14:25 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(11)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 11篇目「朱も丹も」。つげ義治のことを書いているのか、本庄又一郎のことを書いているのか、「副題」と「後注」を読むと、わからなくなる。まあ、どっちでもいい。誰のことを書いているかわかったところで、私はその二人のことを知らないから、二人を手がかりに詩を読むことはない。石毛によれば、二人には「共通点」がある。鉱物、地質に関心がある。そういうふうに認識し、書いていく石毛のことばの動きの方に私の関心がある。

「鉱物には、決まって無援の哀しさがつきまとう側面がある」

 これは誰のことばか知らないが、括弧付きで引用されている。とても興味深い。一行に、詩がある。よくわからないが、そう言われればそうかもしれない、という説得力がある。「無援」は「孤立」ということかもしれない。そして、それは「無援」というよりも、「拒援」(援助を拒んでいる)という感じ。「孤立」している、あるいは「孤立」させられている、というよりも「孤」を積極的に選んでいる。それなのに「哀しみ」につきまとわれる。そういう変な矛盾。撞着。それに引かれたんだろうなあ。そういうものによりそう二人の生き方に、石毛は引きつけられたということだろうなあ。
 そして、この「無援(孤立)」を石毛は、こう書いている。「気負いの感情がこもりすぎた」と。

あのとき かれは
奥多摩駅前の路地裏にある
気負いの感情がこもりすぎた
喫茶「鄙屋」の奥で
銀髪の頭を掻きあげながら
読書に 余念がなかった
「地学五輪の本を読め! という者がいる」
ほつりと 言い放った
それきり口を閉ざし
貧乏ゆすりをはじめた

 「気負いの感情がこもりすぎた」は、次の行の「喫茶「鄙屋」の奥で」を修飾しているのかもしれないが、この「気負い」は、やはり「無援」というより「拒援」という感覚だろうなあ。「主体的」なのだ。だから、「感情」なのだ。もし喫茶店の片隅に「気負いの感情」がこもっているとしたら、それはそこにいるひとの感情である。積極的な感情だから、それは溢れ出て、まわりにひろがる。こもる。そして、ひとはときに「感情」になってしまうのであるが、いや、ひとはいつでも感情をもっているが、それが人を閉じ込めてしまうということかもしれない。
 これは、ある意味では「不健康」である。だから、そこから「引き摺り出して」やることも必要になる。

「引き摺り出して おやりよ」
かれの旅の衣には
いつも 辰砂がとりついていた
それは 煌々としたまばゆいアカではなく
鈍く 深みにはまりそうな
アカであった。

 辰砂。鏡の朱泥の原料だったかな? よくわからない。でもね、「石毛はここが書きたかったんだなあ」と私は「誤読する」。鏡の不思議さ。ガラスの裏に朱泥(水銀が含まれている)を塗ると、ガラスが鏡にかわる。ガラスを鏡に変える朱泥のアカ。アカいのに銀色になって世界を反射する力。世界を映し出す力。そういうが、二人に共通していると石毛は感じているのだろう。

 

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