詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(13)

2022-05-14 09:25:50 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(13)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 13篇目「峠の墳墓にて」。国木田独歩が出てくる。あ、石毛は独歩を読んでいたのか。私は独歩をまともに読んだことはないが、透明なひとだと思う。硬質の透明さが、古さと、古いものだけが持つ確かさをもっている。それは石毛のことばを媒介にして、こんなふうに噴出してくる。

潮垂れるからだを もてあまし
武蔵野の山林を かけのぼる
雲山千里の 峠の墳墓に
感傷的な思いを ふき懸けると
みどりの隙間に 古里の海がせまる

 いま、こんな描写をする詩人はいないだろう。まるで時代小説の文体ではないか。と書いて思うのだが、石毛のことばの奥には、何か「通俗小説」と書いてしまうと語弊があるのだが、気取りきっていない文学との交流がある。そして、その水脈は「細々」というのではなく、妙に「太い」のである。ときどき太すぎて水脈と気づかないときがある。たとえば、ラプラタ川が川なのか海なのかわからないようなものだ、と、私はふとデタラメな比喩を書くのだが(ラプラタ川を見たこともないのに)、それは紛れもない「水脈」なのだ。石毛は、いつも、そういうものに触れている。それから離れることができない。そのために「時代に乗り遅れる」ということがあるかもしれないなあ。しかし「時代」というのはあてにならない、うさん臭いものである。そんなものに「乗る」必要もないだろうし、石毛は、むしろ時代に乗ることを拒んでいるかもしれない。そこに硬質の透明が輝いている。
 独歩は、時代に乗ることを拒んだというよりも、遅れて存在している時代に対して怒りをもっていたと思う。いままでなかった時代を見てしまったために孤立していたように思う。ある時代の作家の多くがそうであったように。
 もしそうだとすると、硬質な透明感(硬質ゆえに近づきがたく、敬遠されてしまいがちな透明感)が共通する石毛は、独歩と同じように時代に乗り遅れているのではなく、時代より先に進んでしまっているために、不特定多数の読者には届きにくい存在なのかもしれない。
 どこがいい、ということを「説明/解説(?)」するのはむずかしいのだが、山本育夫の詩がそうであったように(そうであるように)、ちょっと宣伝の仕方を変えれば大ヒットするのになあと思う。いま、山本育夫の詩集が人気でしょ? 40年ほど前は人気があって、一時期どこに行ったのかという状態だったけれど、いまは誰もが山本育夫と言っている。石毛も、そういう感じ。
 脱線したが。
 独歩を描写した次の連が、私は大好きだ。

風に吹かれて
若葉にくすぶる 峠の墳墓にたつと
そこに 民権運動が眠っている
独歩は 口を手で隠して
なにごとか
海外にむかって 叫んでいる

 「口を手で隠して」。何と、意味深長なことばか。つまり、「誤読」の可能性をたくさん含んだことばであることか。
 「口を手で隠す」のは何のためか。「叫ぶ」ということばと結びつけると、ここに書かれていることの複雑さが、それこそ「硬質な透明さ」で噴出してくる。ひとは叫ぶとき、おうおうにして口のまわりを両手でおおう。手をメガホンのようにしてつかう。山の上で「ヤッホー」と叫ぶとき、多くの人は、知らず知らずのうちに、そういう行動をする。それは決して「口を手で隠す」ということではない。「声」が散らばらないようにするためである。「声」を少しでも遠くへ届けたいからである。
 さて。
 どんなにがんばってみても、人間の「声」は「海外」にまでは届かない。しかし、なぜ、独歩は海に向かって、海を越えて「海外」に向かって叫んだのか。それは、彼の周囲にいるひとには聞かせたくなかったのだろう。聞かせても理解されないと判断したからなのだろう。いまはまだ周囲には理解されないと判断したからなのだろう。
 ほんとうは「周囲」にこそ、「日本」にこそ、その「声」をつたえたい。だが、それができない。むしろ、日本では「秘密」にしないといけない声かもしれない。
 あるいは、周囲には理解されないということを明らかにするために、石毛は「口を手で隠して」と書いたのかもしれない。そこには石毛の認識が色濃く反映されているのである。こういうことばの動きを批評という。海外で流行している「新しい思想」に乗っかりことばを動かすことだけが批評ではない。石毛のことばは、批評性が強いのである。真の批評が動いている。
 そして、このことは石毛の「ことばの運動」の「自己解説/自注」になるかもしれない。石毛も「口を手で隠して」、ことばを発している。比喩を通して、ある人物を通して(他者を利用することで、自分の口の動きを隠すことで)、「声」を遠くまでとどけようとしている。「海外」にむかって叫んでいるかどうか知らないが、大事なのは、どこに向かってというよりも「口を手で隠して」という肉体の運動なのだ。ことばと肉体の関係なのだ。屈折した批評がいつも動いている。
 詩の終わりがとても美しい。独歩は自分の「声」だけをつたえようとしたのではない。単なる「自己主張/わがまま」ではない。その「声」は太い太い「水脈」を引き継いでいる。そのことに石毛は共感しながら、最終連を書いている。このとき石毛は、やはり「ことばの肉体」を支える太い「水脈/者たち」を生きている。

山林をのぼり
峠を 越えた者たち
峠で 息絶えた者たち
峠の 変哲もない墳墓で
ひと口 喉を濡らしていたら
黒い外套の独歩が
匕首を抜いて 墳墓の塵をはらい
虚栄の自由を 切り裂き
駆け下りていった。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする