石毛拓郎『ガリバーの牛に』(17)(紫陽社、2022年06月01日発行)
17篇目「白秋を笑った」。後注に田村奈津子の名前が出てくる。二〇一八年一〇月一一日、十七回忌。知らなかった。
田村奈津子の名前は、石毛から聞いた。石毛、田村、私の三人で同人誌をやったのだったか、田村に断られて石毛と二人で同人誌を出したのだったか、うろ覚えだが、石毛が田村を誘い込もうとしたことは覚えている。たしかそのとき田村の詩集を読んだような気がするが、これも定かではない。
こういうことは詩を読むときに、どう影響するのか。
私は、突然、ぼんやりしてしまった。
きのう読んだ「六根、リヤカーを引け!」には知らないひとが出てくる。登場人物のことを何も知らないので、私は「ギリシャ悲劇」の一シーンを見るように、勝手に想像し、興奮した。
そのときの興奮が、この詩では起きない。そのときの興奮が、やってこない。きょう興奮しすぎたせいなのかもしれないが、「ぼんやりした記憶」がぼんやりしたまま私を包む。
田村奈津子って、私にとって、何だった?
石毛にとっては?
もしや?
ここ 催涙の懐古寺に
きみは いないのではあるまいか
いない!
眠っていない きみは
ちるがいとしく 白秋を笑った。
追善に来た。墓碑に田村奈津子の名前を確かめた。確かめたけれど、そんなことで人間が存在(出現)するわけではない。
石毛は、田村が白秋を批判した(たぶん)、笑った、ということは覚えている。笑ったといっても、実際に、石出の目の前で笑ったのではなく、詩に書いた笑ったのかもしれない。それを思い出している。
「ちるがいとしく」というのは、白秋の短歌の中に出てくる。副題に引用している。「草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしくて寝て削るなり」。腹這いになって、赤い色鉛筆を削っている。見ているのは赤い色だが、補色の草わかばのみどりを連想する。そこから逆に赤い粉を愛でる、というちょっと現実と幻想が交錯するような短歌だ。それを田村は、どう批判したのか。笑ったのか。
石毛の詩から、その具体的な内容(ことばの細部)まではわからない。石毛が田村を思い出している、それも白秋と関係づけて思い出している、ということだけがわかる。
その批判を聞いて、石毛がどう感じたかもわからない。
でも、これでいいんだろうなあ。
白秋批判に触れたとき、石毛は、それに納得したのか、反発を感じたのか。そんなことは、石毛と田村の出会いには関係がない。出会った。そして、何かを感じた。だからいつ死んだのかまで覚えていて、追悼のために寺まで訪れている。
この詩には、「六根、リヤカーを引け!」とはまったく逆の、とても静かな何かがある。この静かさのなかで、私はただ「あ、田村奈津子という詩人がいた」と思い出す。誰だったのだろう。どんな詩人だったのだろう。私にはわからないけれど、確かにその名前を私は思い出すことができる、と思い出す。
私と違って、石毛は……。
そう、石毛は、はっきり意識している。田村は墓の中に眠っていない。田村は田村の書いたことばのなかにいる。ことばのなかで生きている、と。いま、田村は、石毛と一緒に生きている、と。