詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

「かきまぜる」

2022-05-26 14:15:31 | 考える日記

 捨てようとしたノートから、紙がこぼれてきた。こんなことが書いてあった。
 ひとつの新しいことばが加わることで、それまでのことばの意味づけ(価値)が変わってくる。そういう運動をひきおこすのが詩のことばである。
 たとえば「かきまぜる」という動詞。
 エリオットの詩のなかにあっても、日常の会話のなかにあっても「意味」は同じだ。
 だが「荒れ地」のなかでは特別な意味を持つ。それは「生と死」を「かきまぜる」。反対のものをかきまぜる。「異質なもの」を超えて、反対のものをかきまぜる。
 だから驚く。詩を感じる。

 ことばには一定の結びつきがある。水と小麦粉をかきまぜる。水と油をかきまぜる。これは「異質なもの」をかきまぜる。かきまぜるには、「異質」であることを無視してしまう乱暴さ(暴力)がある。
 ここまでは、これまでの「ことば」が体験してきたことである。それは「ことばの肉体」になっている。「無意識の文体」と言っていいかもしれない。
 エリオットのことばは、この「文体」を破ったのだ。
 ことばがそれまで結びつけてこなかったものを結びつけ、新しい世界をつくったのだ。いや、つくったといってはいけないのかもしれない。つくろうとしている。その動き(進行形)のなかに、詩がある。

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山本博道『夜のバザール』

2022-05-26 11:27:31 | 詩集

山本博道『夜のバザール』(思潮社、2022年05月31日発行)

 山本博道『夜のバザール』を読みながら、私は困惑した。山本はいろいろな土地を訪ね歩いている。「カンボジア、タイ、ベトナム、ミャンマー、バングラデシュ……」と帯に書いてある。しかし、私には、その違いがわからない。山本の詩を読んでも、どこが違うのかわからない。違いではなく、共通するものを描こうととしているのかもしれないが、違いがわからなければ共通も浮かび上がらないように思う。違っている、けれど、なにか通じるものがあるというように「認識」は進んでいくと私は考えているが、どうも先に「共通」があり、それを「個別」のなかに展開しているような気がする。「共通」にあてはまる「個別」を選びながら、ことばが動いている感じがする。窮屈なのだ。
 そうした印象の中で、次の数行は、「個別」という感じがした。

戦争博物館には
ほかにも拷問の絵や捕虜たちの写真が
不発弾などといっしょに展示されていた
棚に並んだ青いガラスの一升瓶を見ていると
ぼくの家にもあった空き瓶が重なり
いつもおどおどしていた母と
軍隊帰りの酒乱の父が思いだされた                 (死の鉄道)

 ほんとうに「一升瓶」なのか、一升瓶に見える瓶なのか。どちらでもいいと思うが、そこから山本は「ぼくの家」に引き返し、「母」と「父」を呼び出してきている。さらに父の行動に「戦争」の影響を見ている。ここは、山本にしか書けない行である。
 このことばの展開の中で、山本は「重なる」という動詞をつかっている。一升瓶と一升瓶が重なり、そして、そのまわりにあるものが同時に重なる。重なりは広がっていく。この動きのなかに、山本という人間がいる。
 こういう「重なり」と「広がり」の組み合わせがあれば、この詩集はもっと豊かになるのになあ、と思ってしまうのだ。
 山本は「思いだす」という動詞もつかっている。「思い出す」は山本が過去へ行くことではない。過去をいまとして、ここに呼び出すことだ。過去は存在しない。いつでも、「思い出す」という「いま」の行為があるだけなのだ。
 どれだけ「過去」を「いま」、この瞬間に呼び出すことができる。呼び出された「過去」には「時間」はあって「時間」はない。ただ「いま」だけがある。「いま」から「未来」へ動いていくものだけがある。
 次の部分は、さらにいい。

よれよれの十タカ紙幣三枚と
突っ返されるのを半ば覚悟で
ババ抜きのババのような
破れた五タカ札をチップで出した
若い男はいいともいやだとも言わなかった            (パナムノゴル)

 「若い男はいいともいやだとも言わなかった」とは、それでよかったのかどうか、山本にはわからなかったということだろう。「いま」起きていることがわからない。ここに詩がある。ひっぱりだしてくる「過去」がない。「いま」を生きるしかない。そして、その瞬間に、「他人」がいる。
 山本は、ここでは「他人」と出会っている。
 さらに、こういう行もある。

アメリカ軍が空から撒いた枯葉剤で
ジャングルは焼け野原になった
その後遺症がいまだにつづいているという
眼球が飛び出た嬰児を見つめている少女に
ぼくは彼女が背負っているベトナムを
説明できないまま強く感じた                    (夏の一日)

 「説明できないまま」が、いい。ここでは「過去」は明らかである。「アメリカ軍が空から撒いた枯葉剤」が「過去」である。それは「いま」も影響として、「過去」から噴出してくる。「眼球が飛び出た嬰児」だけが「過去」ではない。それを「見つめている少女」こそが「過去」なのだ。嬰児は死んでいる。ところが、それを「見つめている少女/見つめた少女」は死んでいない。いや、その嬰児を生んだ少女(女)は、もうこの世にいないかもしれない。しかし、その「記憶」はことばにならないまま生き残っており、それがいま「少女」のなかで動いている。
 山本は、その「動いている何か」を感じている。感じるけれど説明できずにいる。ここに、不思議な正直がある。山本は少女ではない。でも、この瞬間少女になっている。

 ここからである。
 いま、少女になっているように、山本は「酒乱の父」「おどおどしていた母」、あるいは「破れた五タカ札をチップを受け取る若い男」に、なれるか。なる覚悟があるか。その「覚悟」をもってことばが動くならば、この詩集は傑作になったと思う。
 「過去」を批判しなければならないという「良識」が先に立って、「覚悟」があとから少しだけついてきている、という印象が強く残る。「良識」がとらえた「歴史」ではなく、「覚悟」が駆け抜ける生々しい矛盾を、私は感じたい。
 父や母のなかにある「わからないもの」「説明できないもの」を山本が引き継ぎ、その「わからないもの」「説明できないもの」を、様々な土地、様々な人との出会いのなかに「重ね」、そこから「記録」ではないものの方へ踏み出していけるはずなのになあ、と思うのである。

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