竹中優子「冬が終わるとき」(「現代詩手帖」2022年05月号)
竹中優子は、第60回の現代詩手帖受賞者。「冬が終わるとき」が今月選ばれた作品。ことばに浮ついたところがない。ことばに奥行きがある。ことばの奥行きに知らずに引き込まれる作品である。
詩に年齢は関係ないのだが、略歴にたまたま生年月日が書かれているのが目に入った。1980年生まれ。ふと、私が投稿していたときの、青木はるみを思い出した。他の投稿者のことばに比べて、奥行きがとても自然で、そこに引き込まれる。こういう奥行きは、私には書けないなあ、と感じていた。その青木は、投稿者の多くが10代後半から20代前半なのに対して、たしか40代だったと、彼女が受賞したときに知った。あのとき、私が感じたことを、いま投稿している若い世代も感じているかもしれない。
「ことばの奥行き」とはどういうことか。
嘘をつくとき
人は人を思い浮かべる
という二行がある。私は、こういうことはない。逆である。逆というと、変だけれど、嘘を聞いたとき、私は人を思い浮かべる。まざまざと、その人を思い出す。これは、嘘が嘘だとわかったとき、と言い直した方がいいかもしれない。
で、私は、竹中の書いた二行を、「誤読」して、
嘘を聞いたとき
私は人を思い浮かべる
と読んでいたのだが、そういう「誤読」を自然に誘う「体験の豊かさ」のようなもの、この人は頭で知ったことばではなく、自分の「体験/肉体」をくぐらせてきたことばを書いていると感じさせる。
こういうことばを「ことばに奥行きがある」と呼ぶのは間違っているかもしれないが、つまり、私だけの「定義」になってしまうかもしれないが。
なぜ、そういう私の「間違い/誤読」を誘うことばを「ことばの奥行き」と呼ぶかといえば。
他人の「体験/肉体」というものは、結局は私にはわからない。そしてわからないからこそ「誤解」するのだが、そういう「誤解」を受け入れながら、それでもごく自然にそこに存在している。あなた(私=谷内)が誤解するなら誤解するでかまわない。いつか、私の言っていることがわかるだろう。それまで、私(作者)は気にしない、という感じでそこに存在している、どうしようもなさ(私=谷内には何もできないという意味での「どうしようもなさ」)を感じる。許されているときの「どうしようもなさ」を感じる。
別のことばで言えば、「あ、おとなだなあ。私の知らないことを知っているんだなあ」という感じである。そして、その「私の知らないこと」というのは、「本」からは絶対に吸収できない、まだ「ことば」にされていない何かなのである。
「ことば」にされていない何か。初めて「ことば」になってあらわれてきた何か。それは、そのことばが生まれてきた「奥」をもっているという感じ。
これは、私が「おばさん」と呼んでいるひとたちに共通することである。
簡単に言い直すと、竹中のことばは、「おばさん」を感じさせる。でも、その「おばさん」は、私が書きたいと思っている「おばさんパレード」というシリーズにはいるものとは少し違う。竹中は、なんといっても、まだ若い。私が投稿していたころ、40代といえば別世界の人という感じだったが、私が年をとってしまったせいかもしれないが、別世界の「おばさん」という感じがしない。
脱線した。
いや、脱線ではなく、なんというか「若い」と感じる部分もある。そこが「おばさん」とは違う。
なにやら、仕事の引き継ぎで、お茶代の管理の説明を受ける場面がある。
400マメー貯たらちょっといい紅茶が無料でもらえる。一日一回サイトを開くだけで、1マメー貯まります。昼休みにサイトを開くように、大真面目にそう話すから、私は何か、がんばってマメーを貯めようという気に実際になって頷いてしまった。
ここには「ことばの奥行き」とは逆のものがあるのかもしれないが、それが逆に「ことばの奥行き」を感じさせる。「体験/肉体」を感じさせる。というのは、かなり矛盾した言い方だが。
言い直すと、ここには「私(竹内、と仮定しておく)」と、それまでお茶代の管理をしていた人がいるのだが、「私(竹内)」はその「おばさん」のことばに引き込まれて、自分自身を忘れている。昼休みにサイトを開いて1マメー貯めるというようなことはどうでもいいことだろうと思いながら、そうやってお茶代を節約(?)してきた「おばさん」の力に説得されてしまう。「私(竹内)」の体験を上回る何かが押し寄せてきて、その「奥」に引きずり込まれる。「お茶のおばさん」のことばには「奥行き/奥深さ」があるのだ。
他人の「ことばの奥深さ」に出会ったとき、抵抗するのではなく、すーっとその「奥深さ」に潜り込んで、それを楽しむ(味わう?)という感じのとき、なんといえばいいのか、竹内の「正直」があらわれる。
その「交渉」が、とてもおもしろい。私が「おばさんパレード」と名づけている人たちの詩には、そういう「交渉」はない。
具体的に言うと。
父の思い出を書いた部分。
この人と一度地面を見に行ったことがあると思い出す
砂利が敷きつめられていた
家を建てようとかなんとか言って笑っていて
誇らしい気持ちで
並んで地面を見た
家を建てるとき、父は誇らしいだろう。その父の誇らしさを自分の誇らしさと受け止めてしまう。家を建てることの「意味」を幼い「私(竹内)」は実感できないだろう。しかし、「家を建てよう」と言ったときの父のことば(肉声)のなかにある、「私(竹内)」の知らない実感(感情の奥行き)に引き込まれている。
竹内には、たぶん、こういう「共感能力」のようなものがあり、それが彼女自身の「ことばの奥行き」に反映してきていると思う。
「土地」を見に行った、「土地」を見た、ではなく、「地面」と書いている。そこにも、そのことを感じる。いまの視点(いまの竹内自身の視点)から言えば、「地面」というよりも、家を建てるなら「土地」であろう。しかし、父の時代は「地面」と言った。その微妙な変化を含んだ「地面」ということばの選択も、「ことばの奥行き」のひとつである。いや、これこそ「ことばの奥行き」を端的にあらわしていると言えるかもしれない。「地面」には「家の設計図(見取り図)」がおのずと含まれる。設計図が想定されていないときは「土地/空き地」である。特に私の年代では、そういう具合にことばをつかいわけていた。つまり「地面」には竹内の父が実在しているのである。
「地面を見に行った」「地面を見た」。そこに、まぎれもなく竹内自身の「肉体」と「体験」がある。それを「並んで」ということばで協調しながら、「いま」に呼び出している。