詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

Estoy loco por espana(番外篇166)Obra, Joaquín Llorens

2022-05-17 18:14:21 | estoy loco por espana

Obra, Joaquín Llorens
T. Hierro macizo
64x52x25
Seleccionada, Concurso de escultura, Álora(Malaga)

La columna redonda es interesantisima.
El cuadrado y el círculo, la presencia heterogénea refuerza el conjunto.
Al encontrarse con disimilitudes, cada uno se confirma a sí mismo.
Toda la existencia puede ser una repetición de este proceso.

丸い柱が興味深い。
異質の存在が、全体を強くする。
異質なものと出会い、それぞれが自己を確かめる。
あらゆる存在は、その繰り返しなのかもしれない。

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石毛拓郎『ガリバーの牛に』(15)

2022-05-17 08:51:15 | 詩集

石毛拓郎『ガリバーの牛に』(15)(紫陽社、2022年06月01日発行)

 15篇目「コーヒールンバ異聞」。この作品については、わりと最近(たぶん、今年だと思う)、感想を書いた。感想を書いたということは覚えているが、ほかは何も覚えていないので勘違いかもしれない。こんなことは詩にとってはどうでもいいことか。そうかもしれないが、そうでないかもしれない。ほら、この詩の「題材」が「コーヒールンバ」なのだから。
 で、私が、いま書いた「ほら」の意味がどれだけ他人に伝わるか。たぶん石毛には伝わるだろうと思う。私の感想は、もともと「返信」のようなものだから、作者以外に伝わらなくても気にしないし、作者がその感想を気に食わなくても気にしない。だいたい、「気に食わない」という反応以上に、感想が届いたという明確な証拠(?)はないのだから、作者が気に入らないというのなら、それは私の感想に対するいちばん正確な反応だろうと思う。私は私の感想を書くのであって、作者の気持ちを代弁するわけではないから、どうしたって作者の思いと違うものがある。
 あ、どんどんずれていくが。
 「ほら」というのは、なんというか、「ほら、これ知っているだろう?」「ほら、さっき言っただろう」というような、何か「既知」のものを提示し、それについて語るときにつかう。「その」とか「あれ」とかに近い。何も知らないものを話題にするとき、「ほら」とはいわない。
 で、その「ほら」が、この詩で指し示しているのは「コーヒールンバ」である。「ほら、あのコーヒールンバだよ」。もっと補足するなら「ほら、西田佐知子が歌っていたコーヒールンバだよ」ということになる。この「ほら」は、私にはよくわかる。この歌がはやっていたころ(昔は流行期間が長かった)、私もそれを聞いたことがあるからだ。西田佐知子のビブラートの少ない声、起伏の少ないのっぺりした声と、リズムの対比が何とも印象的だった。のっぺりした声が、曲のもっているリズムを逆に浮かび上がらせる「補色」というのか「通奏低音」というのか、そんな感じがした。
 また、脱線した。
 そして、その「ほら」なのだが(行きつ戻りつするが)、それは一種の「ずれ」の指摘というか、「意識の喚起」を促す。「ある事実」がある。その「事実」と、それとは別の人間の「錯誤」を指摘する。「事実」と「意識」があっていないとき、「ほら」をつかう。「ほら、さっき注意したじゃないか」は、「注意したのに、それを守らないから、いまこんなことになっているんだろう」ということである。
 「錯誤」「齟齬」の指摘。
 ここから、石毛の「コーヒールンバ」がはじまる。
 コーヒーの自動販売機が「コーヒールンバ」を流していても、ふつうは、そんなにおかしくない。「コーヒーはここにあるよ、コーヒーをのむと恋ができるよ」。でもね、その自動販売機が、東日本大震災後の福島にあったとしたら、近くに東京電力の原子力発電所があったとしたら、まわりが瓦礫だったとしたらどうだろう。
 「あ、コーヒールンバか、なつかしいなあ」と思うだろうか。
 強引に考えていけば「西田佐知子、どうしてるだろう。西田佐知子といえば、60年安保。アカシアの雨に打たれて死んだのは誰だっただろう。あのひとの恋人はコーヒーをのんだだろうか。あれから日本はアメリカべったり。その果に原発(原子爆弾の原料製造所)がある。それが大震災で日本だけではなく、世界中を危機に直面させた」と言えないこともないけれど、まあ、そこまでは考えないだろうなあ。
 で。
 ともかく、「ずれ」、「違和感」に直面したとき、「ほら」ということばが一緒にうごくのだが、石毛は、ここでは「ほら、あの西田佐知子の歌ったコーヒールンバを、瓦礫の中の自動販売機が流している。これって変だろう? 何かおかしいだろう?」と言っている。
 何がおかしいか。
 それは、まあ、読者である私が考えればいい。私以外の読者も考えればいい。

うたって ごらん
自販機 変奏コーヒールンバ
歌詞のない歌が
瓦礫の山に こだまする
ニヒルな愛のうた
遠く崩れ落ちた 原発建屋がみえる
子どものあそぶ 声もない
理不尽な寂寥 コーヒールンバ
だれも通わぬ 瓦礫砂漠
異彩を放つ コーヒールンバ

瓦礫の片隅で
自販機は ただひとり
歌を うたっている
そこだけが やけに明るい
コーヒールンバ!

 しかも、この「コーヒールンバ」には、実は西田佐知子の歌声はない。だから「むかしアラブの偉いお坊さんが」と歌えるのは(思い出せるのは)、ほら、石毛や私の世代だけかもしれないのだ。
 石毛は、どこにも「ほら」ということばを書いていないのだが、私は「ほら」という声を聞くのである。「ほら」と言われたとき、たいてい指摘されたひとは「だって……」と言い訳をする。
 ここから、「ほら、こんなひとも通らないところにコーヒーの自動販売機がある。おかしいと思わないのか」と指摘されたとき、「だって……」のあと、たとえば東京電力は、あるいはこの自動販売機を設置したひとは、なんと「言い訳」するだろうか。
 そんなことも、私は考えたりするのだ。
 「感想」だから。

 

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