前田利夫『生の練習』(モノクローム・プロジェクト、2022年04月11日発行)
前田利夫『生の練習』の巻頭の「距離」。
凍るような闇に
おおわれている
もう先が見えなくなっている
私は手さぐりで
広い歩道にでるが
そこには夜はない
誰もいない路上
灰色の靴音を
ききながら歩くと
乾いた響きのなかに
はじめて 夜が生まれる
「夜はない」から「夜が生まれる」への変化。「広い歩道」にではなく「乾いた響きのなかに」「夜が生まれる」。
このときの「乾いた響きのなかに」の「なかに」がこの詩のポイントだろう。「響き」はもちろん「広い歩道」に響いているとも言えるが、むしろ「私(話者/前田)」の「肉体のなか」に響いている。前田は「響き」になっている。それが「生まれる」ということならば、この「生まれる」は前田の再生であり、それは前田の「肉体のなか」での変化である。人によっては「肉体」のかわりに「精神」ということばをつかうかもしれないが、私は「肉体」と呼んでおく。
「生まれる」は、つづく三、四連で、こう変化していく。
街路灯が
私を照らして
影をつくっている
その跨るような私に
しずけさはない
私が影のなかに
街路灯のひかりをみつけたとき
その距離の間に
やがて
しずかさは生まれる
「私が影のなかに」とここでも「なか」がつかわれているが、それはさらに細分化される。「距離の間に」。「なか」のなかにも「距離」があり、「距離」によって明示される「間」がある。「間」は「なか」を再言語化したものである。そこに、今度は夜ではなく「しずけさ」が「生まれる」。
その「間」が再言語化されたものであるなら、「生まれる」もまた再言語化された動詞ということになる。それは、どう言い直すことができるか。
私の背に
聳えている街は
脈を打ちながら
いつまでも高々として
私を威圧して
夜をつくり
そして
しずかである
たぶん「生まれる」は「つくる」に変わる。前田の肉体が「街」を変え、夜を「つくる」。その結果として、そこに「しずけさ」が存在する。
私は、そう「誤読」したいのだが、ちょっとつまずく。
「つくる」はすでに「影をつくっている」という形で登場してきているが、そのときの「つくる」には「私/前田」は積極的に関与していない。
最初に触れた「夜が生まれる」には「靴音」が関係していた。それは「私/前田」が歩くことによって生まれる「靴音」が関与していた。「影をつくる」のは「街路灯」である。もちろん「私/前田」の存在がなければ「影」は存在し得ないのだが。
積極気に「誤読」を押し進めいてけば。
三連目では「つくる」ということばをつかわずに「影は生まれる」と言った方がよかったのだと思う。「つくる」という動詞をつかうにしても、もっと「私/前田」の肉体が積極的に加担していかないと、せっかく二連目で「生まれる」という動詞をつかった意味が半減してしまう。
「夜が生まれる」と書いているが、それは「夜を産み出す」ということなのだ、そしてそれは「夜をつくる」ことなのだ、という意味合いが弱くなる。「つくる」という動詞を「私/前田」以外のものに奪われてしまう。
その結果。
私と街の相互交渉が、あまりにも「客観的」になってしまう。あるいは、「私/前田」ではなく、「街」が主導権を握って、「夜をつくる」という感じになってしまう。
前田が意図したのは相互交渉だったのかもしれないが、私は「私/前田」が主導権を握って、「生まれる」は実は「産む」であり、「つくる」ことなのだという動詞の変化のなかに前田の肉体が存在感を増してくるというような詩を読みたいと思う。