野木京子「小舟と声」、北川朱実「コンクール」( 「ダンブルウィールド」11、2022年03月01日発行)
野木京子「小舟と声」は、一連目が魅力的だ。
今朝 カーテンを開けると
窓の向こうの湾に
いくつもの小舟が
少しずつ離れて浮かんでいた
それは釣りをするひとたちの舟だったけれど
わたしが知らない夜のうちに
異界の海から浮かび上がってきたように思えた
そのひとたちは
水からなにかを釣り上げるときに
境界を越えるおそろしさを感じるだろうか
「異界」ということばが何か安易につかわれている気がする。私が「異界」というものを感じないせいだろうか。つまり、私は野木の書いている「異界」を実感ではなく、「頭」で書いたことばとして受け取ってしまうので、そこでつまずくのである。
しかし、そのあとの三行がとてもおもしろい。私は釣りをしないが、子どものとき遊びで魚釣りをした。人間とは違うものが、水のなかからあらわれてくる。つまらない餌に食いついてくる。それは、ある意味では一種の「恐怖」だった。それは魚の「ぬるぬる」感じと一緒に私の「肉体」にしみこんでいる。それを思い出させてくれた。
野木の詩は、このあと、こうつづける。いや、飛躍する。
遠い部屋では
嬰児が声を上げていた
甘い 楽しげな声
拒絶の声
声を出すことなどを
どこで覚えてきたのだろう
一連目の「おそろしさ」が「声を出すことなどを/どこで覚えてきたのだろう」と言い直されている。あるいは「境界を越える」が、そう言い直されている。とても刺戟的でおもしろい。嬰児の声が聞こえてきそうだ。
しかし、この後の展開が、かなり抽象的である。「頭」で書いている気がするのである。一生懸命すぎる、といえばいいのか。一連目、二連目で書いたことを、「論理」にしようとしている。それが窮屈でつらいなあ、と私は感じる。
書いていることは、わかる(と、私の「頭」は言う)が、どうもその「わかる」が「苦しい」。解放感がない。「頭」ではなく、「肉体」で動いていくことばが読みたいなあという気持ちになる。
北川朱実は、むりに「論理」を求めない。というか、北川は、ことばを感覚的に散らすのが得意な詩人のように思える。その散らし方に、ちょっと「ずるい」ものを感じるときがある。「コンクール」の全行。
ひたすら練習にあけくれた
年月の先で
ピアニストの指が
一瞬 宙を泳いだ
パリの水が
大きく蛇行し
水鳥がいっせいに飛び立った
静謐な夜の森を歩くような
二百年のノクターン
長い指は その
何にとらわれたのだったか
こぼれた音に
私は
なぜこうも魅かれるのだろう
父は人前でよく口ごもった
ほんとうのことを
かけがえのないことを話そうとして
空ばかり見上げていたが
言葉にするだけで雨になる日がある
父が 今も
つかのまの差し色となって
一日のはずれに立っている気配がする
夜明け前の空の下
こぼれた音を抱いて
ピアニストは
最初に渡ってくる鳥の声を聞く
響きはじめた
いくつもの空をめくって
北川がほんとうにコンクールの演奏を聞いたのかどうかわからない。そのときピアニストが間違えたのかどうかもわからない。しかし、間違えた一瞬を逆に「美の暴走」のようにしてとらえるところがとても美しい。(あるいは、これはピアノコンクールに出たときの北川自身の体験かもしれないが。)
そして、その間違いというか不協和音というかつまずきというか。そこから父を思い出す。しかも、その父は「口ごもっている」。うまく言えない。それがピアニストの「失敗」と重なる。ピアニストの「失敗」が美の暴走を引き起こしたように、もしかしたら父の「口ごもり」も美の暴走のような「真実」を隠していたかもしれない。それをほんとうは聞き取るべきだったかもしれない、と北川は思い出している。
とてもいい詩である。
ピアニストから始まり、父を経て、ふたたびピアニストでしめくくる。完璧な詩の「見本」のような気がする。そして、その「完璧な見本」ということろで、私は、立ち止まる。この「完璧さ」はやはり「頭」がつくりあげたものではないのか。そして、その「頭」は何か「熟練」ということと関係している感じがするのである。
北川は「父の口ごもり」をピアニストとの「失敗」と結びつけているが、「父」ではなく「母」ならどうだろう。母もいくらか似た感じでことばを動かすことができるかもしれない。「母はときどきことばを飲み込んだ」とか。でも「姉」や「弟」、「親友」「恋人」ではどうか。何か「父の口ごもり」が「予定調和」を含んでいるような気がするのである。
コンクールを聞いた、ピアニストの失敗に気づいた。父を思い出した。ということが、現実の体験というよりも、「頭のなかの体験」という感じがしてしまう。「頭」のなかだから全部整理されている。未整理のことばが、肉体を突き破っていく感じ、もがく感じがしない。
で、そういう感じを抱いたまま、もう一度野木の詩を読む。先に引用しなかった後半分は、こうつづいていた。
異界にいたときは水に浮かんでいた
水の中でも
音は聞こえた
ふいに鼓の音が始まりを告げた
掛け声のように
声を出せるというのは
どこにもない世界から訪れた生命にしては
上出来のことで
ない世界では声を出すものなどどこにもいなかった
無から現れ出て
その後はこちら側で急速に成長し
声にも 顔にも
表情を獲得しはじめる
表情と変化こそが
生きているものが生きていることの命綱
ことばが懸命に動いている。どこへいくかわからずに動いている。野木に「予定調和」の「結論」はないのだ。
「ない世界では声を出すものなどどこにもいなかった」「生きているものが生きていることの命綱」という二行の「まだるっこしさ」のなかに、北川のことばの展開にはない「真実」がある。その「真実」は北川のように「完璧」ではない。むしろ、「真実になりきれていない真実」とでも呼ぶべきものであって、それをことばにしたいという欲望が先走りしている。
「無」という生々しい概念に、書かなければならないことがあるという気迫がこもっている。「異界」について、安易につかわれていると私は最初に書いたが、この「無」も「異界」も安易ではなくどうしようもない何かかもしれない。一生懸命としかいいようのない「正直」が噴出している。
最初に読んだときは、この欲望の先走りも「頭の欲望の先走り」という感じで、窮屈に感じたのだが、北川のことばと比較すると、野木の場合は、「ことば自身のもっている欲望/ことばの肉体の欲望」という感じがしてくるのである。
不満なところはいっぱいある。しかし、そういう不満を引き起こさせてくれる力が野木のことばにはある。もし詩のコンクールがあるとして、そこに野木と北川の作品が提出されているのだとしたら、私は、いったん捨てた野木の作品を、北川の詩を読むことで、もう一度引っ張り上げる感じだろうか。野木の作品を選ぶ。