石毛拓郎『ガリバーの牛に』(12)(紫陽社、2022年06月01日発行)
12篇目「植民見聞録」。後注で、石毛は、こう書いている。
ヤン・ソギル原作。崔洋一監督の映画『月はどっちに出ている』を観戦。そこから、屑のひかり、その生き方に、共振した。
「観戦」か。書き間違えかなあ。たぶん意識的に書いていると思う。「屑のひかり」という表現も、意図的だろう。石毛は、映画を見ながら、何と戦ったのか。
そこに描かれているのは「屑」だ。しかし、「屑」はただ汚いもの、捨てられたものではない。「屑」と呼ばれても、生きている。「屑」と呼ばれたことを自分の支えにして生きている。人間は、そうやって生きるということをはじめなければならないのかもしれない。そう感じて「共振」したのか。
しかし、詩には、こういう表現がある。
階下の初老の男が 死にかけている
その隣の家では 夫婦喧嘩がはじまった
向かいの家では 赤子の喉に火がついた
というような描写につづいて、こう書いている。
世間の悲嘆は さまざまだが 共感できぬものだ
おれは ただただ うるさいと思うだけだ
世間の悲嘆はうるさい。共感できぬ。と書くとき、石毛は、何を考えていたのか。何を感じていたのか。「共感できぬ」に共感していたのだ。「うるさい」と言ってしまえるこころに共感していたのだ。
これが「屑のひかり」である。
死にかけた老人、夫婦喧嘩、泣きわめくだけの赤ん坊。自分にとっては何の関係もない。「屑」と呼びすてたい。しかし、その「屑」の、なんとうるさいことか。みんな自己主張している。それが、たとえば「ひかり」と呼ばれるものだ。まだ正式な名前(?)はつけられていない。「屑」でありながら「屑」であることを拒絶していく力のようなもの。
これを何と呼ぶべきか。
植民に 悲憤を感じることもなく
すでに はじめから
在日への おれの思春期は 病んでいたのか!
「悲憤」。ひとは誰でも「悲憤」を持つ。「悲憤」と「悲嘆」に似ている。「悲」という文字が共通する。嘆きを、怒り(憤怒)に、怒りを力に。だが、この怒りを力にするというときには、いくつものしなければならないことがある。怒りは孤立していては力にはならないのだ。団結が必要だ。
だが、団結ほどうさん臭いものはない。「個人」をどこかで抑制しないと「団結」が機能しないときがある。
だから、である。
というのは、飛躍なのだが。
「悲憤/悲嘆」の奥へとおりていかなければならない。なぜ「悲憤/悲嘆」が生まれるのか。それは、それぞれの「個人」がもっているものが何者かによって破壊されるからだ。個人の尊厳が奪われるからだ。
個のその深層へおりて行き、そこから戻ってくる。そのとき、「悲嘆」はたぶん「悲憤」にかわるのだ。そうやってあらわれてくる「悲嘆/悲憤」と、どう向き合うべきか。
石毛は「戦う」ということばをつかっている。「観戦」ということばのなかに「戦う」がある。
これは、どういうことか。
石毛自身への問いだろう。自分は、どんな悲嘆の奥底までおりていったことがあるか。そこから「悲憤」を噴き上げることができたか。「戦う」ということは、相手と正直に取り組むことである。自分とも正直に取り組むことである。
こう書きながら、ここでも私は、石毛の隣にはいつも魯迅がいると感じてしまう。私は石毛ほど正直にはなられない。
---おい! 月はどっちだ。
---夢の島のほうだ。
おまえは そのまま月をめがけて 走れ!
おれは 車を止めて 怠ける。
いいなあ、この最後の「怠ける」。
ここにも何とも言えない「正直」がある。私がこれまで書いてきたことを「うさん臭いもの」にしてしまう「正直」がある。統合/団結、あるいは結論を拒絶する力、個に帰る力が動いている。